辞典篇

解説

名前(字)

三国志の時代にはほとんどが二文字の名前でした。
例えば劉備、姓は劉、名は備で二文字です。
三文字では諸葛亮、姓は諸葛、名は亮です。
今の中国は名が二文字の人も多いですが、この頃の名は一文字なので三文字の人は姓が二文字と考えて結構です。
名前と言えば字(あざな)、劉備の場合字は元徳です。
この字ですが、たいてい名と連動しています。
諸葛亮(字、孔明)の場合、亮の意味は「明るい」。
孔明は「大いに明るい」なのでとってもわかりやすいのですが、そうでない人もいます。

呼び方ですが、基本的に姓名字とつなげて呼ぶことはまずありません。
つまり諸葛亮孔明、なんて呼び方はありません。もちろん亮孔明もありません。
たいてい呼び方を見ればその人との関係がわかります。
「孔明」と呼ぶ人が出てくれば幼なじみや友達です。
家臣などは官位で「丞相」と呼びます。
現在の人が呼ぶなら「諸葛亮」「諸葛孔明」「丞相」「武侯」などと呼ぶのが妥当です。
曹操の場合は「丞相」「魏公」「魏王」となって死んでいますが、
現在では謚号の「魏武帝」と呼ぶと通です。

普通、名を呼ぶことはあまりありません。
名前は大切にするものだからですが、その感覚は日本人にはわかりません。
相手のことを名前で呼ぶときは、たいてい敵方に処刑されるときに罵ったりするときだけです。
皇帝ともなると名を呼ぶことは許されません。
つまり同じ字がつく言葉は使えなくなります。
例えば後漢の光武帝劉秀の場合、「秀」という字が使えません。
選挙の「茂才」は「秀才」という言葉が使えなかったので当てられた言葉です。
魏元帝曹奐が即位する際、元の名を変えたのはよく使われる字だったからです。


廟号、謚号

廟号は皇帝が死んだ後、廟に祭られるときにつける称号です。
初代皇帝は祖、二代目からは宗といわれるのが普通です。
曹操の場合「太祖」です。曹操は即位はしていませんが、実質の初代として祭られています。
謚号は生前の行為にちなんでつけられる追号です。
曹操は「武皇帝」、曹丕は「文皇帝」。ごく最近では昭和天皇がこれにあたります。
ちなみに晋は司馬炎が皇帝になるのですが、祖父の司馬懿(宣皇帝)にまでさかのぼっています。
謚(おくりな)は皇帝以外の人にもつけられます。
諸葛亮の謚は「忠武侯」です。


(官職・官位)

官位についてはかなりややこしいので読み流していただければ結構です。
あんまり重要視されないようですが、たまに出てきて昇進しているのかわからない、
ということがあるときに見てください。
なお複雑な漢字が多く出ますが、よみは書かないことにします。

男(宦官含む)の官職と女の官位では当然に違います。
女のほうは別掲として男の方を書くことにします。
後漢の頃の官僚制は秩石制といわれ給料を穀物の単位、石で示されました。実際の給料は穀物と銭です
最高は1万石(実際は350石)から11石までありました。
単位としては日本の江戸時代と同じですが、性格は全く違うものです。
この秩石に合わせて官職が決まっていたのです。

秩石 中央政府 将軍・校尉 地方行政
万石

(太傅)
三公
・太尉
・司徒
・司空

大将軍
驃騎将軍
車騎将軍
衛将軍
 

中二千石

九卿
・太常卿
・光禄勲
・衛尉
・太僕
・廷尉
・大鴻臚
・宗正
・大司農
・少府
 

河南尹(洛陽)

二千石

   
太守
比二千石 五官中郎将
左右中郎将
虎賁中郎将
羽林中郎将
奉車都尉
騎都尉
フ馬都尉
光禄大夫
侍中
五営
・屯騎校尉
・越騎校尉
・歩兵校尉
・長水校尉
・射声校尉
使匈奴中郎将
護烏丸校尉
護羌校尉
司隷校尉
千石 太尉長史
司徒長史
司空長史
太中大夫
廷尉正・監
中常侍(宦官)
尚書令
御史中丞

長史
※司馬

※司馬

 
比千石 太常丞
光禄勲丞
謁者僕射
衛尉丞
太僕丞
大鴻臚丞
宗正丞
大司農丞
少府丞
  県令
六百石 太史令
博士祭酒
羽林監
中散大夫
諫議大夫
議郎
公車司馬令
南北宮衛士令
考工令
車府令
廷尉平
太倉令
平準令
太医令
太官令
黄門侍郎
小黄門
黄門令
尚書僕射
尚書
符節令
治書侍御史
蘭台令史
従事中郎 刺史
比六百国 博士
五官中郎
左右中郎
虎賁中郎将
   

※司馬がふたつあるのは出世のルートが違うためです。
なお(宦官)となっている官職は宦官が就くことが多かった、ということです。
はじめに任命される官職によって出世が違いますが後漢末期には新たな官職も多くなるので、
省略します。
中平5年には比二千石に西園八校尉が追加されます。
同様に相国や丞相といった官職も新設されたものです。
ちなみに後漢末期には三公は名誉職で、実際に政治を動かしたのは尚書令や尚書でした。
また武官に比べて文官の方が位は高かったようです。
魏書には「武人と扱われたため発奮した」という文章が見られます。
曹操の魏公や魏王、関羽の漢寿亭侯といったものは官職ではなく爵位です。

位といえば「征東将軍」とか「水軍大都督」などが思い浮かぶかもしれませんが、
都督の場合は戦いに行くときの臨時のもので戦いが終われば都督ではなくなります。
また「〜将軍」の場合は官職とは別に将軍位といわれ官職とは別の位です。
ちなみに偉くなると「征東大将軍」などになることもあります。

将軍位 意味
四征将軍 征東将軍・征南将軍
征西将軍・征北将軍
外征軍の司令官
四鎮将軍 鎮東将軍・鎮南将軍
鎮西将軍・鎮北将軍
防備軍の司令官
四安将軍・四平将軍 安東将軍・安南将軍
安西将軍・安北将軍
平東将軍・平南将軍
平西将軍・平北将軍
四征・四鎮各将軍の補佐
四方将軍 前将軍・後将軍
左将軍・右将軍
征・鎮・安・平が地方の将軍職とすれば、中央軍の意味
その他の将軍 ケースバイケースで任命 高い位から低い位まで様々
雑号将軍 ケースバイケースで任命 戦場で活躍した武将に対し、その場で任命する位、数え切れないぐらいある。

最後に「節」を紹介しておきます。
詳しい説明は混乱をまねくので少しだけ。
軍人が天子(皇帝)の命令を受けて戦いに行く際や天子の使者として出向く際に持たされる、
天子から権限を与えられたことを示しています。
戦いには天子の兵を借りるのですから勝手には斬ったりできません。
しかし「節」があれば規律を守らなかった者を自分の判断で斬ってもよいのです。
「節」にもランクがあり「假節」「持節」「使持節」という具合にランクアップします。

まとめになりますが、呂布の例を挙げておきます。
董卓を殺した後、呂布は司徒である王允からこんな将軍位、節、官職、爵位をもらってます。
「奮威将軍、假節、儀同三司、温侯」この儀同三司は三公と同じ扱い、ということです。
少しは理解していただけたでしょうか。


女性達

この頃の女性の地位はかなり低いです。
なにしろ兵糧攻めにあって食べ物がなくなれば「まず女を殺して食べる」ぐらいだったのですから。
まさに馬や牛となんら変わりありません。むしろ馬の方が大切かもしれません。

高い位の人の場合、周りにいて身の回りの世話をする人のことをたいてい「妻」といいます。
だから日本の戦国時代などの正妻と側室とも考え方は違います。
その大勢の中で男の子を産むと名前が残ります。
ただし曹操でいう操、劉備の備などの名前ではなく姓の方(丁氏郭氏)です。
この姓は孫権の娘なら孫氏のように、お父さんの姓から取られます。当たり前ですが。

現在の日本では「夫人」は妻を示していますが、「夫人」は妻の官位です。
妻の官位には上から順にこのようになっています。
皇(王)后、夫人、昭儀、ul(しょうよ)、容華、美人、そして地位が低いものを姫(き)としていました。
この後曹丕曹叡と時代が進むと位に増減がありました。
これを見てもわかるように小説などで「美人」と出てきても、
それは官位であって実際に美人であるとは限りません。
むしろ「夫人」の方が美人であることのほうが多いと思います。
「皇(王)后」は皇帝や王の妻だけに与えられるので、たいていは「夫人」がトップです。
先代の「皇后」は「皇太后」、その前は「太皇太后」となります。
その前になるともうわかりません。例がないので。まさか「太太皇太后」?「太皇太太后」?

男も女も官位はたいてい変わらないので魏、蜀、呉で違いはあまりありません。
ちなみに孫策・孫権のお母さん(つまり孫堅の妻)は呉夫人ですが、べつに呉の国の夫人ではありません。
ただ呉夫人のお父さんが「呉」という姓だっただけです。

この頃の宴会で自分の妻や人の奥さんを挨拶に出させることはタブーです。
この頃でなくてもタブーなのかもしれませんが、これは日本にはない習慣です。
タブーを破った曹丕と夏侯惇は徹底的に批判されています。
わざわざこれをさせたのは曹丕が伝統を破りたがる人であり、夏侯惇はこれをマネしたのです。


荊州の重要性

三国志は中盤から荊州の奪い合いが話の中心になります。
諸葛亮ははじめから荊州の重要性を訴え、益州を獲った後もなんだかんだ言って呉に返さないのです。
結果的に荊州を守りきれずに関羽は戦死し、劉備も仇討ちに失敗し病死した。
蜀は荊州を保持できなかったわけですが、荊州とはそれほど重要な土地なんでしょうか。

まず荊州の位置ですが、中心地を洛陽、長安などを中心とすると南部の地域にあります。
南部には海側から揚州、交州、荊州、益州とありますが、交州は揚州、荊州の南にあたります。
つまり荊州は南部にあり揚州、益州に挟まれ、さらに南に交州があります。
地図を見ればわかりやすいです。
で、主に物語が展開されるのは荊州でも北側の長江(揚子江)の流域です。
南陽郡、江夏郡、南郡があり、新野、樊城、襄陽、夷陵長阪、当陽、麦城烏林赤壁、江夏
はここに含まれています。
ちなみに荊州南部には長沙、零陵、桂陽、武陵があります。

劉表が赴任してからは全くの中立主義をとっていたため、
各地で群雄が乱立していたとき戦争はほとんどが荊州の外で起こっており、平和を保っていました。
そのために荊州には学者や文人が多く非難してきています。
諸葛亮や徐庶なども非難してきた人たちです。
この学者や文人たちはグループを作って討論なんかをしていたらしいです。
と、いうことで人材の宝庫だったわけで劉備も荊州出身の人を多く幕下に入れています。

曹操の力が突出してきてからは中立が保てなくなり劉表の死後、曹操に明け渡してしまいます。
結局赤壁で大敗したため荊州を掌握なかったのですが、今度は劉備と孫権が取り合いを始めます。
諸葛亮がここを重要だと主張したのはやはり位置関係にありました。
すぐ北は魏であり、しかも首都の許(許昌)が目と鼻の先なのです。
東には呉があり、長江を下ればすぐにでも攻撃可能なわけです。
実際に晋は呉を攻める際に益州から長江を下っています。

ちなみに諸葛亮の天下三分の計は劉備が益州と荊州を領有することを基本にしていました。
なぜなら益州は守りやすいが攻めにくい特徴があり、荊州が是が非でも必要だったからです。


三足鼎立

魏、蜀、呉で同時に3人の皇帝がいる異常事態を三足鼎立といいます。
日本では三国鼎立というようですが、あえて三足鼎立とします。
そもそも「鼎(かなえ)」は食べ物を煮る道具で普通は3本足です。
「鼎立」とは鼎のように3つの拮抗した勢力が互いに競い合うこと、を意味します。
だから三国鼎立でもかまわないわけですが、もっと細かく見ると、
3本の足で鼎が立っている状態ということで「三足鼎立」なんですよね。

ところで魏、蜀、呉は拮抗した3つの勢力ではありませんでした。
国土の面では圧倒的に魏が広いですし、文化の面でも差がありすぎました。
蜀は戦争、戦争で文化どころか正式な気象記録(地震があったとか)すらありません。
呉は面積の割に人口が少なく、文化どころの話ではありません。

わかりやすく説明するには太平洋戦争のことを考えましょう。
日本を蜀、アメリカを魏とすると違いはあれど似ています。
日本は序盤勝っていたといえども所詮アメリカ本土への攻撃はできませんでした。
蜀は北伐である程度勝ちますが、兵糧の問題などで結局致命傷は与えていません。
兵糧不足といえば日本は鉄が無くて、鍋や寺の鐘まで集めたといいます。
日本が戦争に励んでいる間、アメリカ本土では文化やら政治やらが滞りなく行われている。
蜀は宰相が戦争を指揮しているのに、魏では詩を読んだりして戦争は軍だけの仕事です。

と、これほどの違いがざっとあったわけです。
つまりよほどのことがないと蜀は勝てなかったんです。
それは呉にとっても同じこと、ましてや後継者争いなんてしてたら余計でしょう。


家柄詐称

三国志に出てくる人物には皇族、高官の子孫、庶民など多くいます。
その中でも劉備の家柄についてはどうも信用できないのです。

蜀書には「(前)漢の景帝の子、中山靖王劉勝の後裔」となっています。
前漢の景帝はもちろん実在しますし、その子劉勝も実在します。
その子劉貞が不正を犯し爵位を失うところまでは事実のようです。
しかしそこから劉備の祖父・劉雄までの系図がないのです。
この間の200年以上の間不明なのはほとんど信用できないでしょう。
つまり劉備は自分の姓が「劉」なので、「劉勝の末裔だ」と言っていることになります。
日本でいうなら「織田」だから織田信長の子孫だ、と言うのと同じですね。

ではなぜ諸葛亮はこの家柄詐称を黙認したのでしょうか。
それはやはり蜀漢を築き、漢再興を成し遂げるには都合が良かったのです。

ちなみに劉備が曹操に身を寄せたとき献帝に目通りし劉勝の末裔と知ると、
「そなたはわしの叔父のようなもの、これからは皇叔(こうしゅく)と呼ぼう」と言い、
その後劉備は皇叔と呼ばれるようになったのだが、これは「演義」の話。
皇叔なんて呼ばれ方はしていない。
これは曹操に権力を奪われた献帝が劉備を頼ろうとしているのを、
この後の曹操討伐の勅命に結び付けているのである。
この頃の劉備の呼ばれ方は「劉豫州」(豫州の牧だったため)だった。


呉の習慣

三国のうちで最も脇役扱いされて、あまり描かれない「呉」は2つの国に比べると変わったところが多いのです。
最もマイナーに位置にある理由は、「正史」においても最も立場が下であること、
そしてそれが「演義」に大きく影響を与えたことが考えられます。
何度も書きましたが「正史」の作者、陳寿は蜀の出身で晋に仕えたので、
蜀を誉めながら、魏を正当国家としています。
「演義」では蜀が主役で、正当国家の魏は敵役として描かれているために、呉の登場回数は自然と少ないのです。

呉の変わっているのは、孫堅の旗揚げからすでに始まっています。
孫堅も地方の豪族で家臣も地方の豪族なのです。
この頃の群雄は政府の高官が地元に帰った、というのが多いので孫堅は異色なわけです。
さらに豪族集団ゆえに孫堅や孫策の死後、いつ散り散りになってもおかしくなかったのです。
実際に魯粛は孫策の死後、そのまま孫権に仕えるかどうかを決めかねていた経緯もあるのです。

さらに呉では母親の存在がとても大きなものになっています。
「演義」でも孫策や孫権が呉夫人に対して頭が上がらないのが描かれています。
同様に「正史」でも孫権が家来になった人の母親に庭から挨拶した、というのもよく見ます。
つまり「このたび息子さんが私の部下になったのでご挨拶に来ました」という感じ。
どっちが主君なのかわかりませんね。
それもそのはずで、呉は基本が豪族の集まりなので孫家より金持ちはいっぱいいるのです。
家来になったということは、その家の財産を一応提供してもらえるので、
そんなスポンサーは簡単に手放したくない、というのもあるのではないでしょうか。

もうひとつは、人を誉めるときに背中をポンポンと叩くということでしょうか。
これは他の2つの国では見たことがない記述です。


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