辞典篇

戦争など

黄巾の乱

黄巾の乱早分かり図
政治腐敗→豪族の土地略奪→農民流浪→飢饉→太平道の勢力拡大→張角暴動を煽動→

→朝廷の討伐開始→張角病死→張梁、張宝戦死→黄巾の主力壊滅→力を持った群雄の割拠→続く

主要人物
張角 張梁 張宝
魯植 皇甫嵩 朱儁 曹操 袁紹 孫堅 董卓 劉備

三国志・三国志演義共に最初に出てくるのがこの黄巾の乱です。
中国では政府の非公認の武装集団を「盗賊」といいます。
公認になると「群雄」といわれるので紙一重なわけです。
黄巾の乱もそんな「盗賊」のひとつで、「太平道」という宗教団体が中心となっています。
184年に全国各地で一斉蜂起します。今風に言うなら同時多発テロです。
ただし数が中途半端ではないほど多いです。
その宗教団体が中心となって各地の農民などが立ち上がったわけです。
目印として黄色の布を頭に巻いていたので「黄巾賊」となったのです。
この黄色は五行の土の色の黄色です。
黄巾賊は漢王朝打倒を名目にしていました。

「蒼天已に(すでに)没し、黄天当に(まさに)立つべし、歳甲子(きのえね)に存りて、天下大吉」
黄巾のスローガンですがこのままだと格好が悪いので漢文にしてみましょう。
蒼天已没
黄天当立
歳甲子存
天下大吉
格好いいじゃないですか、きっと参加した農民たちは張角なんて知らなかったんじゃないでしょうか。
「俺らも政府には不満があったんや。頭の黄巾もかっこいいし、スローガンもいい感じ」
きっとこんなとこでしょう。想像ですけど。

黄巾の乱は張角が総大将として天公将軍を名乗り、
息子の張宝、張梁がそれぞれ地公将軍、人公将軍を名乗りました。
ただし張角は蜂起した年に病死していますので、劉備が張角の軍と戦ったというのは史実ではありません。
息子の二人もその年の内に戦死したのですが、上記の通りなので収集がつくはずもなかったのです。
黄巾賊以外の盗賊も蜂起したりして鎮まるまでには十数年かかりました。
この黄巾の乱で漢帝国がかなり疲弊したのは間違いないです。


水関の戦い(虎牢関の戦い)

水関の戦い早分かり図
黄巾の乱宦官大虐殺→董卓入京、横暴→諸侯が故郷へ→少帝廃位、献帝擁立→反董卓軍旗揚げ→

→長安遷都→水関の戦い→董卓作戦変更?→虎牢関の戦い→孫堅、洛陽に一番乗り→反董卓軍崩壊→続く

主要人物
董卓 呂布 華雄 李濡 李粛
袁紹 曹操 袁術 孫堅 公孫サン 劉備 関羽 張飛

ついに反董卓連合軍が旗揚げし袁紹、曹操、袁術、孫堅などが参加しました。
その頃はまだ弱小勢力だった劉備も公孫サンの傘下として加わっていたようです。
しかしこの連合は元々対立していた勢力の集まりだったため、
一致団結とはいかず実際はほとんど何もしていませんでした。
その中でも積極派の曹操と孫堅は単独で仕掛け、共に負けを期していました。
それでも孫堅は軍勢を立て直し董卓軍の最前線である水関に迫ったのです。
ここを突破しなければ洛陽には到達できないのです。

連合軍は何度も攻め立てたが華雄は強く、攻めあぐねていた。
やがて華雄は一騎打ちを挑んできた。連合軍側も挑戦に応じたが敢えなく討ち取られる。
袁紹は「顔良、文醜を連れてきていれば」と悔しがった。
そこで関羽が名乗りを挙げた。
諸将は反対したが曹操は説得して、華雄との一戦を前に熱い酒を勧めた。
関羽は「酒は置いておいてください。すぐに戻ります」と言うと陣を飛び出した。
そして太鼓が鳴り、鬨の声が響いたかと思うと関羽が駆け戻り、華雄の首を放り投げた。
このときまだ酒は温かかった。

これは演義でも有名なシーンなのですが、実際に華雄を破ったのは孫堅でした。
この戦いは関羽はおろか連合軍も参加しておらず、孫堅の単独攻撃だったようです。

勢いに乗った連合軍の快進撃の中、描かれる劉備、関羽、張飛の3人が呂布に挑んだ有名なシーン、
虎牢関の戦いは実際には存在しないものです。
ちなみに水関の戦いと虎牢関の戦いの間に「董卓は作戦を変更。20万を二手に分け5万を水関の守りに、
15万を自ら率い虎牢関に駐屯した」とあります。
実際には水関と虎牢関は同じ場所で、時代によって名称が異なっているだけです。
簡単に書けばレニングラードがサンクトペテルブルグなのと同じです。
ここで疑問に思うのは董卓はどこへ行っちゃったのかです。
結局二手に分けても水関(虎牢関)で合流してしまうんですよね。
この作戦変更はどんな意味があったのでしょうか。
もしかすると演義の作者、羅漢中は「虎牢関」が使いたかっただけなのでしょうか。
日本人ならともかく中国人は簡単にだまされないと思うのですが。


陶謙討伐で大虐殺

曹操の大虐殺早分かり図
董卓の横暴→曹嵩避難→董卓暗殺→曹操根拠地を得る→曹嵩、曹操のもとへ向かう途中殺害→

→曹操キレて出兵→大虐殺→続く

主要人物
曹操 曹嵩 陶謙

曹操の父、曹嵩が陶謙の部下に殺されました。
曹嵩は地方に引退していたのですが、曹操のところへ行くために家財をまとめて移動していました。
資料によって内容が違うのですが、
1、陶謙の部下が欲に目がくらんで殺した。
2、陶謙が命じて殺した。
どちらにしても陶謙の部下が殺したのは間違いないです。
この後曹操は陶謙を復讐のために攻め込むのですが、この状況がとてつもないものでした。
曹操は陶謙を大いに敗ったのですが、そのとき数十万もの人民を坑殺しました。
坑殺とは崖の上から人を突き落として殺すことで、
あまりに多く人を突き落としたので、川の流れが止まったといいます。
曹操は引きあげるときにも大虐殺を行い、犬や鶏さえいなくなり人の姿は消えたといいます。

果たしてこの殺戮に何の意味があったのかはわかりませんが、
とにかくものすごい数の人を殺したことは間違いありません。
かくて王朝を建国した人は大虐殺を行っていることが多いようです。
曹操も中国では英雄の一人に挙げられます。
英雄であっても逆恨みで何の関係のない人を虐殺するのだと考えると、やはり曹操も人間なのだな、
と思ってしまうのです。
もちろん笑い話にはなりませんが。


張シュウの反乱

張シュウの反乱早分かり図
董卓暗殺により部下が散り散りに→董卓の元部下の張済病死→後を継いだ張シュウが曹操に降伏→

→曹操、雛氏に近づく→張シュウ、キレる→曹操、張シュウの武装化を許可→張シュウの反乱→続く

主要人物
張シュウ 賈ク 胡車児 雛氏
曹操 典韋 曹昂 曹安民

曹操はまさかの奇襲により長男曹昂と甥の曹安民、親衛隊長の典韋を失っています
この反乱を仕掛けたのは降伏したはずの張シュウと参謀の賈クでした。
しかしこの反乱には曹操の自業自得といわれています。
ちなみに曹安民の安民は字で名は出ていないのでわかりません。

董卓の配下だった張済(ちょうさい)は劉表を攻めた際戦死した。
張シュウは張済の甥で、陣中には張済の妻・鄒氏がいた。
(曹操も同様ですがこの時代陣中に家族を連れているのは当たり前です。
まだまだ地盤が安定していなかったこの頃は陣中に連れていた方がむしろ安全だったからです。)
張シュウが曹操に降伏したとき、曹操は鄒氏に心惹かれてしまった。
それに対して張シュウの我慢は限界に達した。
決行の日、普段は戟(げき、武器のこと)を離さない典韋も策略により酔わされ、戟を奪われていた。
典韋もただではやられず善戦したが、限りないような敵の数についに倒れてしまった。

曹昂は曹操に馬を譲ったとも、河を渡れなかったとも言われています。
このとき後に帝位に就くことになる曹丕もこのとき同行していましたが戦火を逃れています。


易京の戦い

易京の戦い早分かり図
反董卓軍崩壊→公孫サン、領土を広げ韓馥を圧迫→韓馥、袁紹と合流→

→袁紹、公孫サンとの戦いに度々勝利→公孫サン、易京にろう城→公孫サン自殺→官渡の戦い

主要人物
袁紹 公孫サン

易京に追い込まれた公孫サンでしたが、易京城は公孫サン自慢の堅強な城でした。
この城は周囲に何重にも塹壕掘り巡らされ内側には高い堤が築かれ、さらに砦が築かれるという難攻不落の城。
しかし袁紹はトンネルを掘って攻略したのでした。
このとき公孫サンは女官と家族と共に砦にこもっていました。
そして家来を砦に囲むように守らせて、自分だけ安全な場所にいたのです。
もともと公孫サンは感情的でひとりよがりな性格でした。
もちろんこのままでは命令系統に問題が生じるのですが、公孫サンは命令を女官に叫ばせたり、
砦の窓から命令を書いたものを下に降ろして伝えたりしていたものですから、
家来の信頼を失っていったようです。
結局頼りにしていた黒山賊の張燕も袁紹に阻まれ、
最後には家族を殺し、自らも火に飛び込んで自害しました。


官渡の戦い

袁紹北部を制圧→曹操、関羽を得る→袁紹、曹操攻撃の好機を逃し劉備を得る→曹操、白馬の戦いを制す→

→関羽、劉備のもとへ→曹操、文醜を破る→長期間にらみ合い→許攸寝返り→曹操、烏巣を奇襲→

→袁紹陣営内部分裂→張コウ・高覧が曹操に降伏→ギョウ都陥落→袁氏掃討へ→長阪の戦い

主要人物 ()は寝返り、または離脱
曹操 荀ケ 荀攸 賈ク 曹洪 張遼 徐晃 (関羽
袁紹 (劉備) 田豊 沮授 郭図 顔良 文醜 陳琳 淳于瓊 (許攸 張コウ 高覧)

冀州を手に入れた袁紹と皇帝を抱いている曹操とのまさに天下分け目の戦いがついに始まろうとしていました。
袁紹は曹操が袁術征伐を行っている際、本拠である許を攻める絶好のチャンスを自ら逃してしまいます。
そして曹操が陣営を立て直してからやっと袁紹は南下し白馬での前哨戦が始まったのです。

白馬に陣取る袁紹側の大将は顔良、曹操側からは宋憲、魏続、徐晃が一騎打ちに出たが相手にならなかった。
顔良に対抗できそうな者がおらず悩む曹操に程cは関羽を呼ぶことを提案する。
しかし関羽は以前から手柄を立てると劉備のところへ帰る、と言っていた。
程cは関羽が顔良を殺せば劉備は袁紹に殺されると言い、曹操も納得、関羽を召集した。
白馬に着くと関羽は顔良に対して自信を見せ、敵陣へ駆け進んだ。
そして顔良を一閃、手向かいのまもなく斬り捨てた。
曹操は関羽を褒め上げたが、関羽は「張飛はもっとすごい」と言ったので周囲の者に、
「張飛に会ったら軽々しく戦ってはならない」と言い張飛の名を書き留めた。
これが長阪の戦いへの伏線となっている。

実は関羽はこのとき張遼とともにはじめから先鋒部隊にいました。
しかも「正史」には顔良を刺し殺した、とあるので斬り捨てたというのは「演義」だけの話です。
この後程cの思惑ははずれ、劉備は殺されませんでした。
そして「演義」では文醜と劉備を派遣し、ここでも関羽の活躍により曹操軍は大勝利を挙げています。
どうも腑に落ちないのは顔良・文醜はこれほど簡単にやられてしまうのか、ということです。
「演義」での話になりますが、顔良は不意打ちだったと言えるでしょう。
元々の「演義」では劉備から何かを言われていて関羽に劉備がいることを伝えようとしたが、
関羽に殺されてしまった、となっていたのを改訂の際に書き換えられています。
文醜の場合は一体どういうことになっていたのでしょうか。
文醜は劉備を一緒に出陣していたので、このときも劉備に何か言われていたのかもしれません。
ただ、これも「演義」での話です。
「正史」では関羽は文醜も殺した、とは書かれていません。戦ったのは事実ですが。
顔良と文醜というのは名前もなんだかおもしろいですね。

関羽が劉備の下へ去り袁紹側にも顔良・文醜がいなくなりましたが、依然として曹操軍は不利でした。
そこへ曹操軍に袁紹から許攸が寝返ってくることで食糧貯蔵地の奇襲に曹操自ら出向き成功します。
これにより戦局は一変、張コウ、高覧が寝返り、曹操軍に勝利に終わったのです。
この後袁紹は病死し、3人の息子もしだいに追い詰められ最後には殺されてしまいます。

申し訳ないですが詳しい話は省きました、しかしこの戦いで曹操の天下はほぼ決まってしまいました。


長阪の戦い

長阪の戦い早分かり図
曹操、南征開始→劉表病死→劉j降伏により劉備逃走→劉備、襄陽に入れず→劉備、長阪で追いつかれる→

→趙雲奮戦、張飛一喝→関羽合流→赤壁の戦い

主要人物
曹操 曹純 文聘 他
劉備 諸葛亮 徐庶 阿斗(劉禅) 張飛 趙雲

曹操が南下を開始すると時を同じくして劉表が病死、後を継いだ劉jは戦わずして降伏してしまう。
これにより居場所を失った劉備は江陵に向かうことにするが、劉備の人徳を慕う民衆も一緒に行くことになった。
しかし軍隊とは訳が違うので、刻一刻と曹操の追っ手が迫っていた。
途中の襄陽では民衆だけでも入場させようとしたが、すでに曹操に下っていた文聘により阻止された。
遅れて襄陽に到着した曹操はより身軽な特殊部隊を派遣し、劉備を追撃した。

曹操の軍の半分のペースでしか進めない劉備軍はついに長阪で曹操に追いつかれてしまう。
大混乱の末、劉備は妻子をほっぽり出して逃走し長阪橋を渡った。
難を逃れた家臣たちも続々と集結したが、心身ともに疲弊しきっていた。
以下「演義」による。
そんな中、趙雲は一人乱軍の中を奮戦、一度は甘夫人を救うが、
再び阿斗と麋夫人を探しに乱軍の中へ飛び込んでいった。
趙雲は曹操軍の中を一騎駆けで蹴散らし、その名を知られるようになった。

趙雲と阿斗が無事に戻ると、張飛はわずかな部下に馬の尾に枝をつけさせ砂ぼこりを立てるように命令し、
自身は長阪橋のたもとで曹操軍を待った。
「正史」では橋を切り落としたとなっている。
曹操軍が到着すると一人で橋を守る張飛を見て、関羽の言葉を思い出した。
「弟の張飛はもっと強い」
すると張飛は大声で「我は燕人、張飛なり。勝負する者はかかってこい」。
しかし誰も勝負を挑む者もおらず、張飛の一喝に落馬する大将も出る始末。
曹操は砂ぼこりを見て、伏兵がありみだりに進むと策にはまると考え、兵を引いた。

その後、関羽が劉gから水軍を借りて合流し、赤壁の戦いへと進むのである。
ここで大きく違うのは徐庶の動向である。
長阪で追いつかれたときに母親が曹操軍の捕虜になってしまったので曹操に降った、となっているのである。
つまり乱軍の中で母親が捕虜になったのを知り、劉備と諸葛亮にあいさつして曹操のもとへ降ったのだ。
ここから考えられるのは「演義」では関羽と水軍を借りに行っているはずの諸葛亮が劉備と一緒にいたことになる。
ということは諸葛亮は別行動をとっていなかったのである。


赤壁の戦い

赤壁の戦い早分かり図
長阪の戦い→魯粛、劉備と会見→諸葛亮と呉の家臣の舌戦→劉備、孫権の連合軍結成→周瑜、総司令官に→

→曹操、南下し烏林に陣取る→(10万本の矢、苦肉の策などのエピソード)→疫病、火攻めで曹操退却→

→曹操、劉備の追撃をかわす→曹仁らの働きで劉備、孫権軍は深追いせず→続く

主要人物
孫権 周瑜 程普 魯粛 黄蓋 甘寧 呂蒙 劉備 諸葛亮 関羽 張飛 趙雲
曹操(主要人物はほとんど不明)

言わずと知れた三国志前半の山場、孫権・劉備連合軍が4倍以上の兵力の曹操軍を破った赤壁の戦い。
少しばかり追いかけてみましょう。

前夜 10万本の矢 蔡瑁・張允 連環の計 苦肉の策 風を変える
劉備軍の役割 史実では

前夜
荊州を手に入れ勢いに乗る曹操孫権に書状を届けさせた。降伏勧告である。
孫権は大いに悩んだ。家臣の意見も真っ二つに割れた。
まず劉備から諸葛亮が同盟の申し出を行い、そのやり取りから孫権は主戦論を決意。
だが張昭顧雍らは降伏を主張、しかし程普黄蓋魯粛らは主戦論に分かれ周瑜を呼び戻させた。
主戦派の周瑜の帰還で大勢が決定した。

演義では周瑜がどちらにもいい顔をしたり、諸葛亮の大喬・小喬の話をされ
戦うことを決めたと描かれていますが、それは史実にない話です。

↑赤壁の戦い

10万本の矢
諸葛亮の才能に後々の呉の危険を感じた周瑜は諸葛亮をなんとか殺してしまおうとする。
作戦を立てるのに矢が不足なので10万本の矢を調達してほしい、と諸葛亮に言い、
「調達できなければ処分」という誓書を書かせることに成功する。
諸葛亮はただでも短い期限を自ら3日に縮める。
しかし、2日経っても何もしない諸葛亮を魯粛は心配する。
諸葛亮は魯粛に船を借りると藁人形を立て対岸の曹操の陣へ向かった。
この船を見た曹操の陣営は一斉に矢を放った。
船が傾き始めると反対側を向け、大量の矢の調達に成功する。
当てが外れた周瑜は悔しがる。

この話も史実にはないフィクションです。
だいたい諸葛亮は赤壁の戦いでは作戦面には携わっていなかったようで、
周瑜もこんなに汚い人間ではありません。

実はこの話にはモデルとよべるものがあります。
「魏略」という書物には赤壁の戦いの後にある濡須口の戦いです。
曹操と孫権の直接対決になったのですが、
このとき曹操が放った矢を船の両側に大量に刺さったところで引き返す、
という話が紹介されています。

ちなみに、周瑜と諸葛亮が曹操を破る策を語り合うシーンで、
二人とも手のひらに「火」と書くものがありますがこれもフィクションではないでしょうか。

↑赤壁の戦い

蔡瑁・張允
苦手と思われた水上戦において見事な動きをする曹操軍に周瑜は驚きを隠せない。
曹操軍には劉表から降伏した蔡瑁(さいぼう)・張允を幕下に迎えていた。
周瑜はなんとかこの二人を始末しようと考えた。
時同じくして周瑜の元に曹操の幕賓・蒋幹が訪れた。2人は幼なじみだったので周瑜を降伏を勧めにきたのだ。
当然のことながら周瑜は断る。2人は酒を酌み交わし寝てしまった。
蒋幹は夜中に目を覚まし、機密文書を見つけてしまった。
なんとその中に張允からのものがあったのだ。
再びうとうとしていると、周瑜を起こし報告をする声が聞こえる。
途切れ途切れに蔡瑁・張允の名前が聞こえる。
早朝、蒋幹は周瑜が寝入っているのを確認し張允からの書状を持ち帰った。
周瑜を降伏させることができなかった代わりに蔡瑁・張允の裏切りを報告すると、
曹操はすぐさま二人を斬った。
もちろん書状は偽物であり、周瑜はまんまと二人を始末したのだ。

実は蔡瑁も張允も文官であり、劉表に仕えていた頃も軍事には関係していません。
つまり曹操に仕えたところで水軍都督などはできるはずもなく、そんな要職には就いていません。
曹操が周瑜をかろんじて蒋幹を送り降伏させようとしたことは記述にあり、
周瑜は蒋幹を見事にやりかえしたことで評判が上がったのです。

「正史」ではこのとき曹操は蒋幹を周瑜引き抜きのために送り込んだのは記述があります。
もちろん周瑜は誘いに乗らなかったのは当然です。

↑赤壁の戦い

連環の計
曹操軍は水上での戦いのみならず、船上での生活にも不慣れでした。
そのために船酔いする者も数知れず、曹操はこのことに頭を悩ませていました。
そこでホウ統は船を鎖でつなげ板を渡せば人はおろか馬での移動も可能になり、
陸上と同様に生活できます、と進言しました。
曹操はさっそく採用しましたがこれによって機動力は下がり、火計を成功させてしまいました。
程cはこれに対し「火を点けられたら…」と指摘しましたが、
曹操は風の方向を示して「火を点ければ奴らが丸焦げだ」と言っています。
しかしそれ以上に船上の生活は大変だったのではないでしょうか。

実際にはホウ統が進言したかどうかはわかっていません。
その後、ホウ統が帰るときに徐庶が肩をたたき「何十万の兵を焼死させるつもりか」と話し掛け、
ホウ統に巻き込まれないために「馬超・韓遂が反乱を起こしたので守りに行く、と言ったら逃れられる」と
助言してもらったのはフィクションです。
徐庶は赤壁の戦いには参加していません。
誰がどんな風にしたのかはわかりませんが、船がくっつき合った状態にあったのは間違いありません。
一ヶ所に固めてあっただけで鎖でつないであったかどうかはわかりませんね。

↑赤壁の戦い

苦肉の策
周瑜は火計を成功させるために最後の大芝居をします。そのためには犠牲も必要でした。

ある日、老将黄蓋は会議の場で「降伏してはいかがか」と主張する。
この大合戦を前にして孫権は降伏を口にしたものは斬る、と周瑜に剣を預けていました。
周瑜は当然激怒し黄蓋を斬ろうとしました。
しかしその場にいたものに止められ、結局は百叩きの刑としました。
その夜、黄蓋のところへ親友のカン沢がやってきて「もしや苦肉の策では」と言い、協力を誓った。
そしてカン沢は夜陰にまぎれ曹操の陣まで行き、「黄蓋降伏」の書状を渡した。
書状の内容に怪しむ者もいたが、カン沢はひとつひとつ答え信用させた。
そして黄蓋降伏の日、いつの間にか風は反対に吹き絶好のチャンスが到来する。
黄蓋は船に兵糧に似せた薪などをいっぱいに積み曹操の陣へと突っ込んだのである。
火の手が上がったことに気がついたが時すでに遅し。
火は次々に燃え上がり見事に火計は成功に終わり、孫権・劉備連合軍は大勝利に終わったのである。

ここで不思議なのは黄蓋の寝返りを聞いた曹操は手を叩いて喜び、爵位と恩賞まで用意したと言います。
それほどまでに黄蓋の寝返りは重要だったのでしょうか。
少なくとも曹操の軍は20万、対する連合軍は5万だったので
兵力的にも勝って当然と思ってもおかしくないのですが。

「正史」では黄蓋が降伏する内容の手紙を曹操に出しあざむいたことは書かれています。
ただし苦肉の策ではなく「周瑜が若くて時の流れを読めていない」ということでした。

↑赤壁の戦い

風を変える
作戦は火計に決まり、黄蓋の降伏も信用された、しかし風向きが変わらない。
このままでは火を放ったところで自分たちが損害を受けるだけだ。
困る周瑜諸葛亮は「風向きを変える」と言い儀式をさせるための七星壇を造らせた。
そして諸葛亮が天に祈ること何日か、ついに東南の風が吹き始めた。
当然周瑜は作戦の準備に取りかからせたが同時に風までも操る諸葛亮に危惧し兵を差し向けた。
しかし兵が到達したときには諸葛亮はすでに迎えの船に乗り帰っていってしまった。
作戦は成功し曹操を追い払ったものの、周瑜は諸葛亮を殺せなかったことを悔やんだ。
実は諸葛亮はこの地方独特の気候を知り尽くし、風が変わる時期を知っていたのだ。

この話も史実にない話です。
本当は周瑜は風が変わる時期が1日だけあることを知っていた、という話もありますが、
実際この季節に東南の風が吹くことはないとようです。
周瑜がどのように火計を成功させたのかはよくわかりません。

↑赤壁の戦い

劉備軍の役割
赤壁の戦いでは孫権軍ばかり活躍していて連合軍とは名ばかり、というわけではありません。
諸葛亮曹操の逃げる道を指摘し、趙雲張飛関羽に伏兵として待ち伏せさせていたのです。
有名な「三度笑う」という場面です。
結果的に関羽は以前の恩を返す形で曹操を見逃してしまいます。
実はこれも諸葛亮の作戦で曹操を生かすことにより「天下三分の計」を成したのです。

史実では曹操をわざと見逃したのではなく、曹操に逃げられたという方が正しいようです。
劉備軍は逃げる曹操に対して火攻めを行っていますが、考えつくのが遅かったため逃げられてしまったのでした。
諸葛亮は曹操を殺す気でいたのか、それとも生かす気でいたのかはわかりませんが、
この時に殺さなかったのが事実なら、もう2度と曹操を殺す機会がなくなることを考えてはいなかったのでしょうか。
事実この後の蜀の攻撃で曹操の命を狙えるほどのものはありませんでした。

↑赤壁の戦い

史実では
ここまで見たように赤壁の戦いはほとんどの部分がフィクションなのです。
実際のところ、「
正史」では赤壁の戦いにほとんど触れていません。
なぜならこの類のものは負け戦については詳しく書かないのです。
魏としては不名誉なことなので記録には残しておきたくないのでしょう。
呉、蜀にしてもその頃は記録どころではなかったのではないでしょうか。

誰が参加したかもよくわかっていません。
演義ではこうなっています


曹操 文聘 于禁 趙儼 程c 袁漁 張遼 張コウ 朱霊 楽進 路招 馮楷
張允 徐晃 任峻 蔡瑁 満籠 陳矯 賈ク 董昭 王粲 陳羣 華キン 王朗
裴潜 劉広 桓階 和洽 許チョ 曹休 曹真 (曹洪 曹仁

周瑜 程普 魯粛 黄蓋 リョウ統 孫匡 甘寧 呂蒙 韓当 周泰 全j 胡綜
呂岱 孫賁 陸遜 潘璋 朱治 呂範

前にも書きましたが蔡瑁・張允は参加していないし、魏の方には特に記述がない人が多い、
つまり誰が参加したかはわからないのです。
正史の呉の方には手柄があった人は書かれています。
ただしほとんど一文だけです。

どこでこの戦いが行われたんでしょうか。
赤壁の戦いとよく言われますが、赤壁は孫権軍が本陣を張った地名です。
ではクライマックスはどこだったかといいますと赤壁の対岸、烏林(うりん)なのです。
魏志にはほとんどが「烏林の役」と書かれています。
さらに中国には赤壁が2つあります。
どちらに孫権の陣があったかはわからないままです。

この後の夷陵の戦いのとき、曹丕は「河に沿ってあれほど長い陣を張っているようでは劉備は負ける」
と言っているので、赤壁でも曹操の陣は長かったはず。
その一部に火が付いただけで全軍が退却してしまうでしょうか。
曹操軍退却のもう一つの原因は風土病にありました。
大半の兵力は風土病で戦闘不能の状態だったのでしょう。

↑赤壁の戦い


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