事柄
桃園の儀早分かり図
黄巾の乱→政府が義勇軍を募集→劉備、張飛、関羽の出会い→義兄弟の契り(?)→出兵へ
三国志演義の第1話となる桃園の儀にはいろいろな説があります。
義勇軍募集の立て札を読みため息をつく劉備に対し、張飛が声をかける。
その後意気投合し居酒屋で酒を飲んでいると義勇軍に参加しようとする関羽が飛び込んでくる。
そこで関羽に話を打ち明け、3人は張飛の家の裏庭で話を進める。
そして裏庭にある桃の木の下で義兄弟の契りを結ぶ。
これが「演義」でのお話です。
「ドラマ」ではこんな出会いになっています。
張飛が営んでいた肉屋で、宣伝として井戸のとてつもなく重いふたを持ち上げた者に
保管している肉を進呈する、としていた。
もちろんふたを持ち上げられる者はいなかったのだが、通りがかった関羽はそのふたを持ち上げてしまう。
面白くない張飛は言いがかりをつけ喧嘩をはじめる。
そこへ劉備が仲裁に入る。
「ドラマ」ではここで桃園の儀となるのですが、ここから誰が長男になるか争う話もあります。
皇帝の血筋である劉備、年長である関羽、長兄になりたい張飛。
結局張飛が「桃の木に飛びつき、一番高いところへぶら下がった者を長兄にする」との提案を採用する。
結果的には張飛が最も高く飛びつき、次に関羽が、そして劉備はただ桃の木に寄りかかった。
張飛は自分が長兄だと主張するが、劉備が反論し、
「木は土から上へ伸びる。天空から下へ伸びる木があれば話は別だが、
下から伸びるのなら頂上は木の根元になるはずだ」と言った。
張飛はしまったと思い、結局劉備、関羽、張飛の順番に収まった。
この話はよくわかりませんが、ともかくこれで順番が決まりました。
ただし正史には義兄弟になったとは書いておらず、また義兄弟という風習はこの頃まだありませんでした。
しかし劉備、関羽、張飛は旗揚げ当時の主従関係として特別な仲であったのは間違いないです。
劉備出奔の早分かり図
桃園の儀→黄巾の乱鎮圧にそこそこ功績→監査役の再審査でわいろを拒否→督郵を打って出奔→行方不明に
劉備は黄巾の乱の功績によって地方の都市、安喜県の尉(警察署長)になることができた。
地域の行政に気を配っていたため、人々は劉備を慕うようになった。
しかし、郡の督郵(監査役)が軍功の再審査にやってきたところ、劉備と対立。
賄賂を求めたり、抗議にやってきた人々に暴力をふるったために張飛が激怒、督郵を柱に縛りつけ
めった打ちにした。
そうして劉備は官位の印を督郵の首にかけ、そのまま出奔していった。
これが「演義」での督郵を打って出奔するシーンなのですが、「正史」では督郵を打ったのは劉備になっています。
なぜこれが張飛になっているのかはわかりませんが、張飛の暴れん坊ぶりを強調したのではないでしょうか。
宦官と外戚の対立激化→袁紹、宦官の誅殺を献策→宦官が何皇后の助けで誅殺できず→
→何進、地方にも呼びかけ→宦官が何進を暗殺→袁紹ら宦官を大虐殺→少帝・後の献帝が拉致される→
→董卓が少帝ら救出→董卓の功績で一気に出世→続く
主要人物
劉弁(少帝) 劉協(陳留王・後の献帝) 何進 袁紹 曹操 董卓 十常侍 何皇后
霊帝が崩御し少帝が即位しましたが、その叔父となった大将軍である何進は
対抗勢力になるであろう宦官の討伐に乗り出しました。
そのために各地の武将を呼び寄せます。その中にはあの董卓や丁原もいました。
これに対し袁紹は賛成を、曹操は反対を唱えました(曹操は宦官の家系だったからでしょうか)。
しかし宦官はこの動きを察知すると先手を打って何進を殺してしまいました。
袁紹はこの期に乗じて宦官2千人ほどを大虐殺します。
このとき「宦官はひげが薄い(男性ホルモンが少ないため)。ひげの薄い奴を殺せ」なんて命令したので、
巻き添えをくって殺された人もいたとか。
この宦官大虐殺で一番得したのは董卓でした。
都へ向かう途中で偶然に少帝と後の献帝らと遭遇、そのまま都へ入ることになりました。
でも董卓の軍は3千だけであり少々不安だったようです。
そこで董卓は連れてきた3千の兵を昼に寝かせ、夜になるとこっそりと城門の外へ出す、
そして朝になると新規の兵として城門から迎え入れたのです。
それでも根本的な数は増えないので、郊外に駐屯していた丁原の軍勢を手に入れようと思い呂布を利用したのでした。
ともかくこの宦官大虐殺をきっかけにして情勢が大きく動いたのは事実です。
もしこれがなければ董卓の進入を許すこともなく、少帝が廃されることはなかったかもしれません。
曹操逃亡早分かり
董卓、政権を奪取→董卓、曹操・袁紹らの抱き込みを図る→曹操逃亡→呂伯奢一家を惨殺→反董卓軍旗揚げへ
主要人物 ()は「演義」のみ登場
董卓 曹操 (陳宮) 呂伯奢
曹操は董卓に信用されていたようです。
「正史」では、董卓は曹操を驍騎将軍に任命し、今後の相談をしようとしていたのです。
これにたいして曹操はこの計画(内容はよくわかりません)が失敗すると考え逃げたのです。
「演義」に書かれている暗殺に失敗して宝刀を董卓に差し出し逃亡した話はありません。
逃げる途中の話では「演義」では逃亡中一度捕まるが、陳宮が位を捨てて共に逃亡します。
しかし「正史」には陳宮は登場しません。ただ誰かに逃がしてもらったことは確かです。
呂伯奢一家惨殺事件も起こったようです。
こんな説が残ってます。
1、呂伯奢の子供たちが食客と曹操の馬と持ち物を奪おうとした。
2、曹操が子供たちが自分を殺すのではないかと考えた。
3、呂伯奢たちが用意する食器の音を耳にして殺されるのではないかと思った。
「わしが裏切ることがあっても、他人には裏切らせない」と言ったと書いてあるのはBです。
「演義」も書いておきましょう。
呂伯奢は二人(曹操と陳宮)を丁重にもてなした。
夜になって二人が寝ていると刀を研ぐ音が聞こえ、「殺す」という言葉も聞こえる。
殺されるのではないかと思った曹操は呂伯奢は不在だったが子供たちと家来を惨殺する。
惨殺した後、豚を殺してもてなしの準備をしていたことに気が付き、二人は逃げ出したが、
折り悪く酒を買いに行った呂伯奢が帰ってきたところに出くわした。
曹操はこのまま家に帰られるとまずい、と考え呂伯奢も殺してしまった。
そのとき「わしを裏切ることがあっても…」と言う。
陳宮はこれをさかいに曹操の元から離れた。
董卓殺害早分かり
反董卓軍崩壊→董卓、女性問題で呂布に激怒→王允、呂布と董卓の仲を裂く→董卓暗殺→
→王允・呂布が政権を取る→董卓の部下が反乱→王允殺害、呂布逃亡→続く
皇帝を尻目に傍若無人の限りを尽くす董卓に思いも寄らぬことが起きた。
養子として側近として信頼してきた呂布の裏切りである。
ここで主役となるのは王允と貂蝉、そして呂布でしょう。
ただしこの貂蝉ですが、正史には登場しません。
ここではいわゆる「連環の計」の説明は省くことにします。
貂蝉がいないとなれば、正史に登場するのは誰なのでしょうか。
元々正史には単なる侍女や女官などは名前は残っておりません。
皇后などですら名前はあまり出てきませんし、侍女が出てくる場合単なる「侍女」なのです。
当然のことですが、よっぽど重要なことがないと侍女などは史書には出てきません。
ただし王允が図って董卓と呂布を仲違いさせたのは事実のようです。
「董卓は…手槍を投げたことがあった」や「呂布は董卓の侍女との密通の発覚を恐れていた」とあるので、
恐らくここに王允が関与していたのではないかと想像できます。
諸葛亮登用早分かり図
(正史)劉備、荊州に身を寄せる→髀肉之嘆→徐庶登用→博望の戦い(?)→司馬徽が諸葛亮の存在を教える→
→三顧の礼→曹操南下へ
(演義)劉備、荊州に身を寄せる→髀肉之嘆→劉備、蔡瑁に狙われる→司馬徽、諸葛亮の存在を窺わせる→
→劉備、徐庶を登用→徐庶、去り際に諸葛亮を推挙→三顧の礼→博望の戦い→曹操南下へ
曹操のもとへと向かう徐庶は最後に諸葛亮を推薦しました。
「友達に伏竜と鳳雛がいる。どちらかを迎えれば天下を取ったも同然。」とでも言ったのでしょう。
結果的にどちらも迎えられたのに天下を取れなかったのは、やはり蜀の人材不足でしょうか。
劉備は徐庶に連れてくるように言ったが会いに行かないと無理、と言われて会いに行った。
一度目、二度目は不在で三度目にやっと会えた。
…変じゃないですか。いくら評判がよくても殿様が直接会いに行きますか。
評判だけの若者かもしれないのに。
曹操も後に人材を求めていますが、「誰でも推挙してほしい」というものでした。
確かにこの時期劉備は人材、特に文官で優秀な人材を求めていました。
とはいえ1度目に会えなかったからといって、もう一度会いに行きますか。
会いにきたのを知っておいて何の音沙汰もない諸葛亮も失礼極まりないですよね。
この話は諸葛亮の才能を知って後から作ったものではないでしょうか。
出師の表に「三顧の礼をもって…」というくだりがあるので、否定はできません。
いろいろ説はあるんですが「魏略」にあるこの話が有力視されています。
劉備が曹操対策の会議が開かれていた、会議が終わっても帰ろうとしない若者がいる。
劉備はこの会議で発言をしなかったこの若者を気にはしていなかったが、
意見があるのかと思い、飾り物で手遊びをしていた。
すると若者が「将軍は大志を抱いているのでしょうか、それとも飾りをいじっているだけなのでしょうか」と言った。
劉備は「心配事を忘れようとしてるだけ」と答えると、若者は現状について意見を述べ、
その上、戸籍を作るよう提案した。
若者は諸葛亮なのだが、この後3度目にして初めて人払いをし1対1で話をした。
その話の中であの「天下三分の計」が語られたのである。
普通に考えるとこちらの方がよっぽど現実的な気がしますが、
三顧の礼とはいったいどういう意味なのでしょうか。
ちなみに同じ中国国内でも言葉はかなり違います。
劉備は北の出身で諸葛亮は南の出身なので言葉では通じなかったはず。
通訳がいたのでしょうか、それとも筆談だったのでしょうか。
それにしても会議のあとすでに二人きりのような感じがするのですが。
難しいのは人払いして語った、という事実です。
誰も知らないはずなのに…。
孔融は天下に名の知れた名士だったが、曹操にたてついたために孔融は殺されてしまいました。
曹操はすぐに名士を殺す、と天下が非難していたという言葉が残っていますが、ここでの主役は孫権です。
孫権は酒好きであまり酒癖がいい方ではなかった。
ある時の宴会でみんな泥酔状態にもかかわらず、孫権は酒をついでまわった。
虞翻は酔ったふりをして杯を受けなかったが孫権が通り過ぎると何食わぬ顔をしていた。
これに孫権は怒って虞翻を斬ろうとした。
近くにいた劉基が必死になって止めた。「これはたしかに虞翻が悪い。でも世間はそうは思わないです」
すると孫権は「曹操は孔融を殺したのに、なぜ私が虞翻を殺してはいけないのだ」と言って聞かない。
だからといって殺させるわけにはいかないのでなんとか思いとどまらせた。
この後孫権は酒の席で殺すと言っても殺してはいけない、と言った。
このとき虞翻は許されたが結局懲りずに悪口をついたため辺境に流された。
孔融と虞翻はだいたい同格の学者なんだそうです。二人ともよく主人たてついたりしていました。
そう考えると、中国に限らず高名な学者は体制にたてついて殺されることが多いのでしょう。
ある種変人なので、仕方がないのかもしれません。
この類は友を呼ぶのでしょうか、孔融は禰衡を曹操に推薦しましたが、
禰衡も最後は黄祖に殺されてしまいます。
この禰衡は相当の変人でした。
曹操は荀ケに食べ物を送ったが、容器の中身は空だった。
荀ケは曹操の意図を悟り自殺したのだ。
荀ケの急死には謎があります。
曹操が自殺を命じたのだが、原因がよくわからないので議論を呼んでいるのです。
荀ケは曹操が魏公になるのを反対しています。
これは前漢を滅ぼした王莽(おうもう)と同じ儀式をしようとしていたから、と言われますが
これでは曹操が怒る原因としては弱いです。
もう一つは荀ケは曹操が漢帝国の復興を信じていたので反対した、と言います。
「魏臣とすることすらけしからん。漢臣扱いこそ正しい」と言っているのです。
しかしこれではあまりにも荀ケが間抜けになってしまいます。
反論としては「泥棒に壁を破らせ箱を開けさせておいて、盗まなかったといって泥棒でないとはいえない」
荀ケは曹操の何を手伝っていたかわからなかったはずはないのです。
ではなぜ荀ケは死んだのか。それは荀ケにしかわからない。
曹操が容器に入れ忘れたのかもしれないし、本当に殺す気だったのかもしれない。
呉は面積においては魏と同等でした。しかし魏に比べて人口は半分以下でした。
そこで人口を増加させるために孫権は人狩りを行ったと言われています。
夷州や亶州(台湾、琉球、日本とまで言われている)まで行き、無理矢理呉に連れ帰ろうとしたのです。
しかし結果的に風土病にあい、数千人連れて帰るのに9千人も犠牲になり尋常でない被害を出してしまいました。
このためこの計画はすぐに中止されましたが、孫権としては魏が蜀の北伐に手を取られている間に
富国強兵を図りたかったのではないでしょうか。
卑弥呼(正史三少帝記では俾弥呼)は公孫淵と交易を行っていました。
燕が滅ぼされて(238年)から1年も経たずに卑弥呼の使者である難升米(なしめ)が帯方郡に来ています。
燕は滅ぼされているのでそこにいた魏に朝貢する形になったのでしょうか。
明帝記で司馬懿は「往きに100日、攻撃に100日、帰りに100日、休憩に60日」と言っています。
実際には正月に出発して9月には公孫淵を殺しました。
攻撃終了までに休憩をしているとすればほぼ宣言通りですが、その後1年以内に難升米が来ているので、
司馬懿の燕攻略が遅れていれば魏への朝貢はまだまだ先の話になっていたかもしれません。
その後243年に再び魏に卑弥呼の使者が来ています。
呉の後継者争い