辞典篇

戦争など

ホウ統戦死

蜀争奪戦早分かり図
赤壁の戦い→孫権から荊州を借りる(?)→張松、劉備に益州の地図を渡す→法正、劉備に救援要請を献策→

→劉璋、張魯対策に劉備に救援要請→劉備、劉璋と会見→劉備、張魯を征伐せず→曹操が呉を攻撃→

→劉備、呉の支援を口実に撤退→劉備の奇襲を見抜かれる→李厳、寝返り→強行突破を狙ったがホウ統戦死→

→諸葛亮出陣→張飛、厳顔を生け捕り→劉備、諸葛亮らと合流→成都包囲→馬超、劉備軍へ→劉璋降伏→続く

主要人物 ()は寝返り ※は途中参戦
劉備 ホウ統 諸葛亮 張飛 趙雲 ※馬超
劉璋 劉巴 張任 劉潰 (法正 張松 李厳 厳顔)  張魯

劉備が益州獲得に向けて兵を進めたとき、一人の天才軍師が戦死しました。
「鳳雛」と呼ばれたホウ統です。
戦死した場所は落鳳波と言われ、ホウ統も「いやな予感を感じ」た、と描かれています。
劉備と馬を交換したため間違われたや流れ矢に当たったなどと言われています。
ちなにみここでいう「流れ矢」とは目標を外れて飛んできた矢、ではなく
雨のように降り注ぐ矢のことです。水が流れるような矢、とでも言いましょうか。
「演義」では前者で描かれていますが、そうではありません。

このとき劉備はただ軍師を失っただけではありませんでした。
進撃している劉備軍にはホウ統がおり、荊州には留守として諸葛亮がいました。
この事実から考えてどうやら軍事的なことに関してはホウ統の方が優れていたと見てもいいでしょう。
諸葛亮はむしろ内政の方が優れていたのでしょう。
結局劉備は益州をなかなか落とせなかったため諸葛亮、張飛、趙雲を呼んでいます。
こうしてこの時期曹操孫権、劉備、そして諸葛亮が重視していた荊州関羽ひとりが残ることになったのです。

もしこの時ホウ統が死ななければ、益州に諸葛亮を置き州内の混乱を抑え、
荊州には関羽、ホウ統を置き曹操、孫権に睨みをきかすことができたかもしれません。
少なくとも関羽の下に優秀な参謀がいればそう簡単には荊州を奪われることがなかったかもしれません。


合肥の戦い

合肥の戦い早分かり図
赤壁の戦い→曹操、合肥に張遼らを置き撤退→曹操、関中平定のために出征→孫権、合肥を攻撃開始→

→張遼、李典が孫権を破る→張遼、追い討ちをかけさらに大打撃を与える→濡須口の戦いへ

主要人物
張遼 李典 楽進
孫権 リョウ統 甘寧 陳武

魏と呉の国境、合肥(がっぴ)が孫権の急襲によって危機に陥りました。

かねてから張遼、李典、楽進はあまり仲がよくなかった。
しかしこの状態になったときのために曹操からの命令書があった。
その命令書には「楽進は城の守りを、張遼と李典は城を出て戦え」と書かれてあった。
窮地に陥った3人は普段を忘れ互いに助け合って戦った。
このとき張遼はあわや孫権を討ち取るかというところまで迫った。
そして引き返そうとしたが呉軍に囲まれてしまった。
やっとのことで囲みを突破したが味方の「張将軍は我々を見捨てるのか」という声が聞こえ、
取って返したかと思うと、全て救出して帰った。
その後は守りを固くし、孫権が引き上げると追撃し散々に打ち破った。

この戦いは呉にとって相当ショックだったようです。
これを境に張遼の名は呉に鳴り響き、まさに泣く子も黙るということになりました。

合肥の戦いで戦死した呉の将軍に陳武がいます。
しかしこの陳武、正史と演義では死んだ場所、年が違っています。
「正史」では合肥、「演義」では濡須(じゅしゅ)ということになっています。
演義には三国志以外の文献からの引用も多くあるのでこれも一種だと思われます。
よくあることなのであまり気にすることではないです。


定軍山の戦い

漢中攻防戦早分かり図
曹操、漢中平定→劉備、荊州分割で孫権と同盟→劉備、漢中攻撃命令→張飛、張コウを破る→

→曹洪、張飛・馬超を敗走させる→劉備自ら出征→定軍山の戦い→曹操出馬も劉備を破れず→荊州争奪戦へ

主要人物
劉備 法正 張飛 黄忠 馬超 趙雲 魏延 呉蘭 雷同
曹操 曹洪 曹休 夏侯淵 張コウ 楊脩

漢中を手に入れた曹操軍に劉備軍が襲いかかった。
劉備軍は張コウを度々破り、曹操自らを出馬させた。
曹操は漢中の要所である定軍山を夏侯淵に守らせ、劉備に備えた。
対する劉備は黄忠・法正を先鋒とし、趙雲、張飛、魏延を援軍に充てていたのだった。

夏侯淵、黄忠共に決め手がないまま睨み合っていたが、
法正の献策により黄忠は定軍山の隣にある西山を急襲、占領した。
取り戻そうとした夏侯淵は交戦を呼びかけるが黄忠は戦う気配を見せない。
数時間経ち、昼過ぎになった。
暑さのために夏侯淵軍は完全にだらけきっていた。
それを見た法正は突撃を指示、黄忠軍は乱れきった夏侯淵の軍中へなだれこんだ。

この戦いで黄忠は夏侯淵を斬り、曹操軍の士気は下がった。
再び劉備軍と戦うが勝つことはできず、ついに漢中から撤退。
ここに劉備は漢中を手に入れたのだった。


関羽の死

荊州争奪戦早分かり図
周瑜、曹仁を攻撃→周瑜、荊州奪還に失敗し病死→諸葛亮、益州に向かう→
劉備、荊州分割で呉と同盟→

→関羽、分割許さず→孫権、密かに魏と同盟→関羽、曹仁を攻撃→呂蒙が陸遜と交代→

→呂蒙・徐晃、関羽を挟み撃ち→関羽、麦城へ→関羽、逃走中に捕縛、処刑→夷陵の戦い

主要人物 ()は裏切り、※は「演義」のみ登場
孫権 呂蒙 陸遜 潘璋  曹仁 満寵 于禁 徐晃 ホウ悳
関羽 関平 劉封 孟達 (士仁 麋芳) ※周倉

関羽は于禁を破った勢いのままに樊城を落そうとしていた。
しかし病と言われていた呂蒙が荊州を急襲。
関羽は帰るところを失ってしまった。
そこへ徐晃の攻撃により敗走、やむなく麦城へ逃げ込むことになった。

麦城は小さく兵糧が少く、そのうえ孫権に包囲されていた。
劉封、孟達の援軍も到着しない。
孫権への降伏要求もつっぱねたが、兵も見る見るうちに減っていった。
関羽はやむなく城を出て、益州まで逃げることにした。
途中多くの部下を失いながらもなんとか包囲を突破した。
しかし待ち伏せしていた、潘障の部下馬忠によって手取りにされた。
関羽とその子、関平は忠義を貫き殺された。

関羽には死後もまた伝説が残っている。
孫権は魏に罪をなすりつけるために関羽の首を曹操に送った。
曹操は関羽の首を見て「お変わりないか」と聞くと、関羽の目が開いたという。
以前、世話になった和尚の所に霊となって現れたなど。

関羽は死んだ直後から伝説がうまれています。
現在の関羽信仰はこの頃からすでに始まっていたといえるのです。


夷陵の戦い

夷陵の戦い早分かり図
関羽戦死→劉備、反対を押し切り出兵→張飛暗殺→劉備、快進撃→孫権、陸遜を起用→劉備、長々と布陣→

→火攻めにより劉備、白帝城へ逃走→魏の攻撃に備え陸遜、後追いせず→続く

主要人物 ※は出陣前に死亡
孫権 諸葛瑾 陸遜 朱然 潘璋
劉備 馬良 黄権 呉班 沙摩柯 ※張飛

劉備は関羽の弔い合戦として本来同盟関係にあるべき呉に向けて自ら出陣します。
この戦いには諸葛亮以下家臣、特に文官は反対していました。
そして夷陵の戦いを前にして張飛が暗殺され、黄忠は開戦前に病死しました。
それでも圧倒的な戦力で連戦連勝を重ねていきました。

劉備の快進撃に当惑した呉の孫権は張飛を暗殺して呉に逃げ込んだ二人を引き渡した。
しかしそれでも引かない劉備に対
して、陸遜を抜擢し派遣した。
陸遜は若く、元々書生だったため武官にはなかなか認められなかった。
陸遜は徹底して守りを固め、季節は春から夏になった。
暑さに耐え切れなくなった蜀の軍勢は川のほとり、谷間に陣を敷きなおした。
魏では蜀の陣が川に沿って長かったため負けを予測していたという。
陸遜は伸びきった陣に対し火攻めを用い焼き払った。
劉備は白帝城へ逃げ去ったのである。
陸遜は魏からの攻撃を恐れ呉へ帰った。
「演義」では陸遜の追撃を諸葛亮の石の八陣図によって防いだ、となっているが疑わしい。

この戦いでもわかるように劉備が軍事の全てを仕切っています。
これ以外でも、ほとんど劉備が指揮を取っていました。
意外ですが諸葛亮は劉備が死ぬまでほとんど軍事ではなく政治を担当していたようです。

結局この戦いが原因となって劉備は白帝城で病死しました。
その他にも軍師の馬良らが戦死、黄権は魏へ降っています。
蜀は軍備において大損害を被ったわけなのですが、皮肉にも関羽、張飛そして劉備と相次いで失ったことにより、
諸葛亮が軍事をも統括することになりいよいよ見せ場となるのです。
これにはちょっとした理由があります。
やはり諸葛亮がいくら天才だとしても、劉備と最古参の2人は扱い辛かったのでしょう。
今でもよくある創業者とその周辺がなにかと口を挟む、というやつですね。


南征

南征早分かり図
劉備病死→諸葛亮、軍を再編成→高定、朱嚢ら反乱→孟獲を七たび捕え、七たび許す→北伐

主要人物
諸葛亮 蒋エン 馬謖 呂凱 趙雲 魏延 馬忠 李恢 馬岱
孟獲 孟優 雍ガイ 高定 朱嚢 朶思大王 祝融夫人 木鹿大王 兀突骨

諸葛亮は軍事を統制し北伐を前にして反乱を起こした南の蛮族を平定することにした。
これにあの「七たび捕らえ、七たび許す」です。
諸葛亮は南蛮を平定するために南蛮王・孟獲(もうかく)を心から降伏させました。
三国志中異色な戦いを追ってみましょう。

諸葛亮を迎え撃つため孟獲は金環三結(きんかんさんけつ)、董荼那(とうとな)、阿会喃(あかいなん)
の三人を派遣するが、金環三結は斬られ、董荼那、阿会喃は捕らえられる。
そこで孟獲は自ら迎撃するがあえなく生け捕りにされてしまう。

一度捕らえられた孟獲は弟・孟優とともにまたしても兵を挙げる。
一方諸葛亮は毒の川に阻まれ進めずにいた。
捕らえられた際もてなしを受けた董荼那、阿会喃は恩義を感じ川の渡り方を教える。
恩義を感じたがゆえに戦えなかったことを理由に董荼那は罰を受ける。
それにより、二人は孟獲を見限り、反対に孟獲を捕らえ諸葛亮に送り届けた。

孟優が降伏してきた。
諸葛亮はそれが計略だと見抜いた上で受け入れた。
そして贈り物に潜ませていた兵を捕まえ、孟優を酔い潰した。
そうとは知らぬ孟獲はだれもいない陣にまんまとおびき出され、またしても生け捕りにされてしまった。

孟獲、孟優は全軍を結集して攻めてきた。
諸葛亮は少しずつ陣を引き、あたかも成都で異変があったかのように見せかけた。
孟獲は蜀軍を全滅しようと追撃したが、伏兵に取り囲まれ、生け捕りにされた。

孟獲は朶思大王に頼ることにした。
朶思大王は洞穴につながる二つの道のうち1つをふさいだ。
もう一つの道には毒の泉があり飲んだ者、触れた者は死んでしまうというものもあった。
蜀軍の進軍は困難を極めたが、孟獲の兄・孟節の助けにより解毒してもらう。
そして洞主楊鋒(ようほう)と図り、援軍と称して孟獲達を捕らえた。

孟獲の妻・祝融夫人が戦いを挑んできた。
張嶷、馬忠は祝融夫人の武勇に捕らえられてしまった。
諸葛亮は趙雲、魏延らと図り祝融夫人を捕らえ、二人と交換した。
孟獲は木鹿大王(もくろくだいおう)を頼った。
木鹿大王は白象に乗り、虎や猛牛などの猛獣を操り蜀軍を蹴散らした。
諸葛亮は南蛮には動物を操る者がいると聞き、かねてから用意した物があった。
再び木鹿大王が攻めてきたとき、諸葛亮は巨大な木獣を出撃させた。
木獣は口から炎を吐き撃退、木鹿大王は逃げる途中で象から落ち死んでしまった。
孟獲は祝融夫人の弟・帯来(たいらい)洞主の計略により捕まえたふりをして、隙をつき諸葛亮を殺そうとしたが
見破られその場で生け捕りにされてしまった。

孟獲は最後の勝負に兀突骨(ごくとつこつ)を頼りにした。
兀突骨の兵は藤づるを油につけ乾かすことを何度も繰り返した鎧を着て、
剣も槍も通さず、川を渡るときにはいかだにもなるスグレモノだった。
諸葛亮は冬の用意をしていなかったためいち早く勝敗を決したかった。
そのため無益な殺生をしたくなかったが、やむなく火攻めにし壊滅に追い込んだ。
孟獲、孟優、祝融夫人も乱戦の中で生け捕りにされた。

孟獲は降伏したが、そのまま南蛮王として残された。
孟獲は二度と反乱を起こさないと約束した。
諸葛亮は死んだ者の弔いをした。
南蛮には49人の首を供える習慣があったが、むやみな殺生をさけるため小麦と肉で饅頭(まんとう)
をつくり使者を祭った。

これは「演義」に描かれる南征であり、史実はわかりません。
ただ史実ではない物が大部分だと思われます。
諸葛亮も最後の最後に無益な殺生を好まない、などはちょっと変です。
実際には南征は3ヶ月程度で終わっていますが、これは北伐の準備だったといえます。
劉備が死に諸葛亮が軍事を統制して夷陵の大敗後の軍備の再構築と
士気を高めるものだったのではないでしょうか。


北伐

主要人物 ()は魏から蜀への寝返り
曹叡 曹真 司馬懿 夏侯尚 張コウ 郭淮 カク昭 司馬師 司馬昭 ケ艾 (姜維 夏侯覇 孟達
劉禅 諸葛亮 趙雲 魏延 馬謖 馬岱 王平 ケ芝 呉班 高翔

泣いて馬謖を斬る(第一次北伐) 陳倉城攻防(第二次北伐) 第三次北伐
第四次北伐 五丈原の戦い(第五時北伐) 死せる孔明、生ける仲達を走らす
出師の表 その後の北伐 目的

泣いて馬謖を斬る(第一次北伐)
出師の表を捧げた諸葛亮はついに北伐へ向かった。
まずこれより五回全てで拠点となった漢中に本陣を置くことになります。
元々蜀は周りの地形から「守るに易く、攻めには難しい」と言われているため、
諸葛亮も綿密な計画を立てていました。
それは孟達を味方に引き入れること、そして挟み撃ちにして長安を落とすことでした。

しかし孟達の寝返りに素早く反応した司馬懿は孟達を急襲し、挟み撃ちは失敗に終わります。
諸葛亮は作戦を変えるために軍議を開いた。
議題はどの泰嶺山脈のどのルートを使うかでしたが、
その席で魏延は子午谷(しごこく)を通り、一気に長安を落とすことを提案したが却下されます。
結局、平坦な道を使い関中西部を平定することになりました。
諸葛亮は斜谷(やこく)を通ることを宣伝し、趙雲ケ芝を偽装進軍させ、自らは祁山(きざん)へ向かいました。
魏の曹真は主力を斜谷に集中させたために、蜀の本隊が進んだ南安、天水、安定の3郡は降伏しました。
この際姜維が魏から降伏しました。

3郡の降伏を受けて、曹叡自ら長安に出陣し張コウを派遣します。
諸葛亮は要となる場所である街亭をまだ若い馬謖を抜擢し守りにつかせました。
馬謖は諸葛亮の命令を無視し山の上に陣を敷き、反対した副将の王平はわずかな兵で街道を守りました。
歴戦の将、張コウは山を包囲し水を断つと投降兵が続出し、総攻撃を受け敗走。
王平は少ない兵でなんとか馬謖を救い退却しました。
街亭での敗戦により作戦は崩壊、諸葛亮は退却し第一次北伐は終わりました。

諸葛亮はかわいがっていた馬謖が命令を違反し大敗を喫したことで、彼を処罰しました。
劉備が死ぬ間際に残した言葉「馬謖を大任につかせてはいけない」や、
緒将の起用に際する危惧の言葉を思い出し、私情によって軍法を曲げられないことを考えて、
涙を流しながらも斬刑にしたのです。
諸葛亮は馬謖の才を見抜けなかった責任として官位を3階級降格にしました。

なぜ諸葛亮は魏延の案を却下してしまったんでしょうか。
このとき蜀にはかつての猛将関羽張飛馬超黄忠はもうおらず、趙雲も年老いていました。
中心となる人物は魏延しかいなかったのです。
しかし諸葛亮は魏延には裏切りの相があったと言われ、大任を負わせることはできなかったのです。
もし魏延が長安を獲ってしまえば蜀軍のなかで魏延の影響力が大きくなってしまいます。
諸葛亮は懸念していたのではないでしょうか。

↑北伐

陳倉城攻防(第二次北伐)
呉が魏に侵攻すると魏は援軍を送り関中の守りが薄くなりました。
そこで諸葛亮は再び北伐に向かいました。

今回は斜谷から陳倉城を包囲、攻撃しました。
陳倉城にはカク昭が少数の兵で守っていました。
このときカク昭は無名に近かったんですが、思いのほか頑張って陥落させることはできませんでした。
そうこうするうちに曹真の援軍が押し寄せました。
蜀軍は兵力と兵糧の問題から退却しました。
この退却時に追撃してきた魏将王双を斬りました。

この後、諸葛亮は陳式に武都、陰平を攻撃させました。
魏は郭淮を派遣したが、察知した諸葛亮は自ら出撃、挟み撃ちを恐れた郭淮は一戦も交えず撤退。
蜀は2郡を手に入れることに成功した。
この2郡獲得は魏にとってそれほど重要ではなく、この後も取りかえそうとはしていません。
恐らく負け続きだったため士気をあげるために行ったと思われます。
これを加えて諸葛亮の北伐は第六次までとも言われています。

↑北伐

第三次北伐
丞相に復帰した諸葛亮が準備を始めると、察知した魏は曹真が斜谷、張コウが子午谷から漢中へ進軍させました。
蜀も迎撃体制をとりましたが、大雨により魏の進軍はストップ。
やむなく撤退し始めました。
このスキを突いて諸葛亮は一気に涼州へ攻め込みました。
魏延郭淮と激突しますが、援軍として諸葛亮も加わり蜀軍の大勝利に終わりました。
このときは原因はわかりませんが、このまま漢中に引き揚げています。
「演義」では劉禅の召還といわれています。

↑北伐

第四次北伐
諸葛亮はいつも兵糧が続かないことの対策としてこのときはじめて木牛(もくぎゅう)を使用しています。
この木牛とはおそらく手押しの4輪車と言われていますが、
蜀書でも設計図などがなく文章だけの説明なので、どういうものかははっきりわかりません。
ドラマでは「木牛流馬」という牛の形のロボットでした。

第一次と同じく祁山へ打って出、鮮卑の酋長である軻比能(かひのう)と結びかく乱しました。
その頃、魏では長年蜀からの攻撃を防いでいた曹真が病死し、司馬懿が後任に就きました。
諸葛亮は軍を2つに分け、一方は祁山を包囲しもう一方は司馬懿迎撃に向かいます。
蜀軍はまず郭淮と激突したが難なく撃破、さらに周辺の麦を刈り取り挑発しました。
そこへ司馬懿の本隊が到着しにらみ合いとなりました。
ここにきて諸葛亮VS司馬懿が初めて実現するのです。

司馬懿は蜀軍の兵糧が切れれば引き揚げるのを計算して、戦う様子を見せません。
諸葛亮も攻める手立てがなくなり引き揚げにかかった。
それに対して司馬懿は陣を出て後を追う。
しかし蜀の本陣である祁山を目の前にして司馬懿はまたしても消極策をとったのです。
これに対して張コウらは臆病者呼ばわりして攻撃を要請、悩んだ末に司馬懿は攻撃するのでした。
これを受けて諸葛亮は魏延、高翔、呉班らに迎撃させ散々に打ち破りました。

司馬懿はまたしても門を閉ざして戦う意思を見せなくなりました。
ここにきて蜀軍には兵糧問題が浮上します。
李厳が兵糧を送れないことをごまかし、劉禅の召還を偽装したのです。
諸葛亮は撤退をはじめましたが、司馬懿も張コウに追撃を命じます。
蜀の伏兵により張コウは戦死させたのですが、そのまま漢中へ撤退していったのでした。

↑北伐

五丈原の戦い(第五次北伐)
結論から言えば諸葛亮にとってこの北伐が最後の決戦となりました。
ただし五丈原では激しい戦いは展開されていません。
蜀軍も魏軍も川を隔てて屯田を行うという奇妙な状況がそこにはあったのです。
このとき木牛に遅れて流馬がはじめて使われます。
流馬は手押しの一輪車である、という説が有力です。

諸葛亮は挑発として女性用の服を司馬懿に贈り挑発しますが、司馬懿は動きません。
女々しい臆病者、という武人としては一番の屈辱に耐えたわけです。
「演義」では司馬懿が一笑して終わりですが、「正史」では司馬懿は攻撃しようと考えましたが、
辛ピに止められていたようです。
司馬懿は使者に諸葛亮の近況を聞き、死が間近であることを察知します。
そして234年8月23日諸葛亮は病死し、蜀軍は撤退を余儀なくされたのでした。

↑北伐

死せる孔明、生ける仲達を走らす
諸葛亮の死後、楊儀らが撤退を始めると、司馬懿は急いで追撃しました。
すると蜀軍は突然向きを変えて攻撃する様子を見せたのです。
司馬懿は驚き引き返し、攻撃しようとしなかった。
これを見て人々は「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言いました。
蜀軍が撤退した後、蜀軍の陣を見た司馬懿は完璧な布陣に舌を巻いたといいます。

蜀軍が攻撃する様子を見せたとき、諸葛亮の人形を使ったというのは「演義」のお話。
「正史」にはそんな記述はありません。

↑北伐

出師の表
諸葛亮が北伐を行う際に劉禅に提出した上奏文のことで今でも内容は残っています。
劉備に迎えらたこと、魏を討伐し漢王朝再興を目的にしていることなどが書かれています。
この中で「三顧の礼」などが出てきます。

ちなみに第二次北伐の際に出されたといわれる「後出師の表」なるものも存在するのだが、
内容がこの時代にありえないことが含まれていたりするので、後の時代に誰かが書いた物と言われています。

↑北伐

その後の北伐
諸葛亮の死後もその意志を継ぎ北伐は行われました。
総大将となったのは姜維で、諸葛亮の北伐よりも回数は上回っています。
しかしこれといった成果もないまま逆に魏の蜀征伐が行われ、蜀は滅ぼされてしまいました。

諸葛亮が軍事も政治も司っており、劉禅の信頼もあったのですが、
姜維は元は魏からの降伏者で軍人であり、劉禅とはあまり面識がなかったこと、
政治の方にはあまり携わらず、文人との距離が日に日に広がっていったことでしょう。
結局、理不尽な撤退命令や謀叛の疑いがかけられたり、
姜維の北伐は国内にも敵がいた、といっても過言ではなかったでしょうか。

↑北伐

目的
蜀という国は戦いとなると必ずといっていいほど文人が反対する。
群臣のほとんどが反対した夷陵の戦いはもちろん、
この戦いで大敗した軍を再編成するための南征も反対されている。
北伐については「南征で帰ってきたばかりなのでもっと休め」や、
「国の内政を充実させてからでもいい」という理由で反対されている。
姜維の北伐の際にも後者の理由で文官から猛反対を受けている。

ではなぜそれほどの反対を押し切って北伐を行ったのか。
また軍事規模からも人材からも魏と比べれば圧倒的に不利だったのになぜ北伐を行ったのか。
それは蜀が建国されたことが北伐の目的なのである。
蜀は「蜀漢」といい、漢王朝を引き継ぐ国家として建国され目的は魏打倒なのだ。
諸葛亮にしても姜維にしても国内の充実を図り、
蜀漢を長続きさせることは不可能だということはわかっていたのではないか。
あくまで魏打倒こそが目的であり、魏と国力において大きな差があるからこそ
北伐を行わなければなかったのではないだろうか。

↑北伐


蜀の滅亡

蜀滅亡早分かり図
北伐開始→五丈原で諸葛亮病死→再び北伐開始→蜀の文武が対立→黄皓が政治をしきる→姜維左遷→

→晋、南下を開始→鐘会と姜維がにらみ合い→ケ艾、回り道で成都包囲→劉禅降伏→姜維、鐘会に降伏→

→ケ艾、陰謀で逮捕→鐘会・姜維が反乱もすぐに鎮圧→劉禅、洛陽に送られる→続く

主要人物
司馬昭 ケ艾 鐘会 諸葛緒
劉禅 姜維 ショウ周 諸葛瞻 諸葛尚 劉ェ 黄皓

蜀は諸葛亮存命時からすでに人材不足に陥っていました。
諸葛亮が志半ばで倒れたときの後継ぎについては
蒋エンが継ぎ、次に費イが継ぐ」と言いましたが、その後を聞くと首を横に振ったといいます。
そして姜維が大将軍になる頃にはすでに文官と武官との間には深い溝ができていました。
宮中のことは黄皓がとりしきり、姜維の言うことを一切劉禅の耳には入れなかったのです。
そしてケ艾が成都を包囲し、状況に気がついたときはもうすでに手遅れとなり、
ショウ周に従い劉禅は降伏してしまうという、なんともあっけない幕切れでした。

さてここでよく議論されるのがショウ周の降伏論は正しかったのか、です。
そもそも皇帝が降伏するのは国にとっても臣下にとっても最大の屈辱でありやはり戦って散るべし、
というのが日本人の考え方としても大きいようです。
もちろん中国の学者もこの考え方をしている人も多いです。
ケ艾に包囲されたときの会議ではショウ周の降伏論以外にも方針が示されています。
それなのに劉禅がなぜ降伏論を選んだのでしょうか。
ひとつずつ考えてみることにしました。

「本来の同盟国である呉に逃げる」
ショウ周は過去の事例と恥の上塗りを避けるためにこの案を切り捨てます。
つまり他国に亡命してまで皇帝でありつづけた者はいない。
蜀がなくなれば圧倒的小国の呉はいずれ併呑されてしまうので、劉禅は二度も降伏することになる。
「南方は守りやすいので南に逃げる」
ショウ周は南方が諸葛亮の南征から時間が経っているので、
治安が不安定になっており、何が起こってもおかしくないと主張し切り捨てました。
さらに呉が降伏していないので劉禅を許すに決まっている、もし所領を与えないなら自分が説得する、
とまで言われてしまったので誰も反論できる者がいなくなってしまったのです。

個人的には蜀の人民のためを考えた場合、仕方のない判断だったのではないかと考える。
この結果、成都の人民は劉璋の頃も降伏しているので戦乱に巻き込まれなかったことになる。
賛否両論あるが、結果的にこの判断は蜀の人民の総意だったと思う。
しかし降伏する屈辱というものは今となってはわからないが。


呉の滅亡