辞典篇

政治関係

宦官と外戚

いつの時代も宦官と外戚は対立してきました。
宦官とは後宮(大奥)で働く去勢された男子のことです(後宮は皇帝以外男子禁制だったため)。
外戚は皇后や皇太后の親戚です。
なぜ対立するのかというと皇帝を取り巻く環境に原因があります。
まず皇帝に近い存在として皇后や皇太后がおり、歴史上かなり政治に口出しすることがおおいのです。
そして皇后や皇太后の兄弟などが影響力を強くするために政治の世界に登場します。
後漢末に登場する何進も何皇后の兄であり、実戦経験が無いにもかかわらず大将軍にまで出世しています。
外戚に対し宦官は後宮で働くうちに皇后や時には皇太子などにも影響を与え、
自らが出世していき政治に口を出していくのです。
曹操の祖父に当たる曹騰や十常侍(10人の中常侍)が有名です。
こうして宦官と外戚は互いに喰い合って権力争いをしていました。
ここに割って入ったのが袁紹などの清流派で、宦官を大虐殺したことで混乱していくのです。


刺史と牧

三国志の前半には刺史と牧という言葉が数多く出てきます。
劉備が徐州の牧になったとか、幽州刺史の劉焉が〜など、他にも太守や相など様々な身分が出てきます。
まず〜州には「郡」と「国」があり、「郡」は政府直轄領、「国」は皇族が王に立てられた領地です。
「郡」の行政責任者(市長みたいなもの)は太守、「国」の場合は相といいます。
そして「州」には太守たちの監査役がいて、それを「刺史」といいます。
例外として洛陽、長安を含むいわば首都圏は司隷校尉といいます(警視総監と同じですね)。
188年に政府は新体制として刺史に代わり牧を置きます。
刺史はこれまで軍事力を持たず禄高も太守より少なかったので、大幅に権限を強化したのです。
しかし牧ができた後も刺史という位も残ったので同時に存在することになりました。
先駆けとして劉焉、劉虞、黄エンがそれぞれ益州、幽州、予州の牧に任命されました。
州牧制のために地方の中央からの離反が拡大することになるのです。

他の官位などは「」を見てください。


選挙

よく考廉に揚げられる、というのがあります。
これは官吏になるための第一歩で、選挙のひとつです。
選挙とは6つの徳目「賢良方正」「直言」「明経」「有道」「茂才」「考廉」によって太守や相などが推薦するのです。
漢の時代は特に考廉が重視されています。
それは宦官に対する清流派を宮廷に入れるためです。
曹操袁紹など官僚となった人たちは考廉に挙げられていますが、劉備は考廉ではありません。
もともと選挙は太守や相などが推薦する制度なので、その地方の豪族や金持ちの息子などを推薦することが多いのです。
なぜなら推薦することによって援助が見込めるからです。
それに官吏になるわけですから、それなりに勉強していなければいけない、
でもお金持ちでなければ高名な先生について勉強することができないのです。
中にはそんな身分の壁を乗り越えて考廉に挙げられる人もいます。
呉のカン沢は農家出身で最も身分の低いところから出発したといわれています。


屯田制

後漢末の混乱で農民の多くが死亡、流民化、豪族の支配化に入っていた。
このため、政府の労働力は減り、荒廃した田が多かった。
曹操は典農校尉という地位を利用して農民を強制的に募集、移住させた。
これがいわゆる民屯田である。
この後、兵士が工作にも従事する軍屯田も多数設置した。
魏帝国の基礎になっていった政策である。


九品官人法

信じられないことに「正史三国志」には九品官人法などの政策に関してはほとんど書かれていないのです。
作者である陳寿はこの手のことは苦手だったんでしょうか。
九品官人法は人材の評価を一品から九品までランク付けし等級を「官品」、人材評価を「郷品」とする。
そして、郷品に従って定められた官品に人材を置いていくというシステムです。

の詳細はこちらをごらんください。

一品 三公・大将軍  
二品 ※大将軍
驃騎将軍
車騎将軍
衛将軍
四征将軍
四鎮将軍
※大将軍(上記とは別)
・中軍大将軍・上軍大将軍
・鎮軍大将軍・撫軍大将軍
・南中大将軍・輔国大将軍
三品 九卿
四安将軍・四平将軍
四方将軍
※その他の将軍
※その他の将軍
雑号将軍とは違い、四品のものなど様々である。
四品 刺史  
五品 太守
雑号将軍
 
六品 秩千石の者  
七品 秩六百石以上の者  
八品 署長  
九品 署丞  
流外  

一品〜五品は「公卿大夫」、六品、七品は「上士」、八品、九品は「下士」と言われていました。


237年、公孫淵が燕王を称し年号を立てました。
帝位にはついていないもののこれにより4つ目の王朝が立つことになりました。
公孫康は遼東を中心に朝鮮半島北部(楽浪郡、帯方郡)を支配下にし魏の列侯になっています。
袁紹の子、袁熙袁尚を殺し、曹操に首を届けたことが大きいです。
子、公孫淵の代になってからは魏を北から狙える存在として呉から燕王に封じられています。
しかし後に呉の使者を斬り、魏の恩賞にも不満を示しついに独立を宣言しました。
結果的に
諸葛亮が死んだことで3方からの脅威がなくなった魏は司馬懿を派遣し、
燕は238年に滅ぼされ、公孫淵は殺されました。