辞典篇

中国のこと

中華思想

「正史」と「演義」まず三国志を語るにおいて、はじめに説明しなければならないのは中華思想です。
極端に書くと中華思想は「国家は中国だけであり、中国人だけが人である」というものです。
山に例えると、頂上には皇帝がおり、周辺に行くほど山を下っていく。
中国の国土の周りには東夷、西戎、南蛮、北狄(これらは人間扱いされていない)があり後は何もない暗闇なのです。
ちょうど昔の西洋人の地図が「海の先は滝になっていて暗闇である」と似たようなものです。
日本は東夷でした(後漢書東夷伝に日本は出てきます)。
話を戻しますが、中国に山はひとつだけ、つまり皇帝は一人、唯一無二の存在なのです。
ヨーロッパのようにドイツにもオーストリアにもロシアにも、という状態はありえないのです。
だからこそ三国時代は3人の皇帝が存在する中国史の中でも異常事態なのです。
ここからはとても複雑なのですが、中華思想でいう中国とは今の国家を指すものではありません。
皇帝のいるところを中国といいます。
日本から見れば皇帝のいる中国は「中国」であり、今の中国の地方に住む人から見れば皇帝のいる首都が「中国」なのです。
さらに首都に住む人から見れば皇帝のいる宮殿こそが「中国」なのです。
後漢の時代でいうなら、東夷である倭国から見た後漢は「中国」、後漢の中の地方都市から見た洛陽は「中国」、
そして洛陽の住人から見た宮殿は「中国」なのです。
昔の日本人には江戸から横浜に引っ越して「私も中国に近づいた」と喜んだという話もあります。
極端ですがこの人にしてみれば山を少し登ったんでしょう。


「正史」と「演義」

三国志には「正史」と「演義」があります。
「正史」は晋の時代に陳寿が書いたもので(現在書店に並ぶものには裴松之の注がついてます)、
「演義」はそれから1000年ほど後に羅漢中が書いたものです。
違いは「正史」は紀伝体で、「演義」は物語になっています。
紀伝体とはいうならば人物紹介のようなものです。
中国の「正史」はほぼ紀伝体で、「史記」から始まって「明史」までで二十四史あります。
「正史三国志」はその中のひとつです。
詳しいことは長くなるので省きます。
「演義」は正史三国志を中心に後漢書、晋書などを研究して架空のエピソードなども織り交ぜて作られた長編小説なのです。
ちなみに「正史」はしい歴書ではなく、政府が式に認めた歴書のことです。
「正史」にも嘘はあります。
ここに出てくる後漢書とは後漢の書、ではなく後・漢書です。つまり漢書の後編と考えてください。

三国志演義は羅貫中が書いたものを、何人かの作家が改訂しています。
現在、最も普及しているものは毛宗崗が改訂した、いわゆる毛宗崗本です。
そのためこのページの「演義」も毛宗崗本を中心にしています。
羅貫中のものと毛宗崗本との違いは、代表的なものを書いておきます。
()内は毛宗崗本ではどうなっているかです。
・漢から魏の禅譲の際の献帝の曹皇后が示した態度。(献帝をかばう)
夷陵での劉備戦死の噂を聞いた孫夫人の自殺。(孫夫人は自殺)
諸葛亮司馬懿らを焼き殺そうとしたときに魏延も一緒に焼き殺そうとしたこと。(削除)
諸葛瞻が晋に降伏するか悩んだこと。(削除)
白馬の戦いで劉備が顔良に関羽の人相を教えていた。(削除)
また、三国志演義を忠実に再現したといわれる「中国ドラマ」も
羅貫中のものに沿っている部分とそうでない部分があります。
そのためかタイトルも羅貫中の原作、その後の毛宗崗本も含む改訂版の総称「三国演義」になっているのかも。


正史のつくり

現在の三国志は「魏書」「呉書」「蜀書」の3書から成り立っています。
一般には「魏志」「呉志」「蜀志」といいます。
魏志が全体の半分以上を占めていますが、それは魏の人物が多いこともですが
三国に該当しない人も魏志に含まれているからです。
紀伝体で書かれていますが、紀は皇帝のみでその他は伝という見出しになります。
紀は魏志にだけあります。これは正統国家をごらんください。
人物のことはたいてい姓は抜きで名前だけで書かれます。
ただし廟号(びょうごう)や謚号(しごう)で書かれていることも多いです。
例えば曹操は「太祖」、曹叡は「明帝」、董卓は「卓」など。

正史の著者は陳寿です。
陳寿はもともと蜀に仕えていました。
晋にくだってから「正史三国志」を書いたのですが、やはり蜀のことを引き立ててやりたいと思ったのでしょう。
呼び名を孫権は「権」、劉備は「先主」としています。
歴史書を書く人間としてはちょっと問題ありですね。


正統国家

「演義」では蜀(劉備)を中心に書かれていますが、実際の正統国家は魏です。
理由は後漢から禅譲という正式な帝位の移動がなされているからです。
「正史」では曹操を武帝紀であるのに対し、劉備は先主伝、孫権を呉主伝としています。
歴史上の見方では正統国家の魏に対して反乱をおこした地域としていると思ってください。
ちなみに魏、呉、蜀は地域の名前です。
地域の名前なので、後々の春秋戦国時代などにも同じ名前が出てきたりします。
特に劉備は名目上漢王朝再興をうたっているので漢または蜀漢といいます。
ややこしいので蜀と呼んでいるだけです。


日本の城とは全く違います。
日本は城下町があり堀があり城があります。
行ったことがある人や時代劇が好きな人ならわかると思います。
日本の城下町は攻め込まれても敵が城まで到達できないように路地が複雑になっています。
一方中国の城は日本で言うなら平安京です。
平安京は長安を参考にしているので似ているのは当たり前ですが。
つまり町全体が城壁で囲まれており、四方に門があり碁盤の目のようになっています。
正面の門から入って大通りを進むと宮殿が建っているのです。

門は朝決められた時間に開き、夕方決められた時間に閉まります。
中に住む人々は開いている時間に行き来ができます。
外に畑がある場合もあるのですが、たいていは町(城)の中にいれば生活はしていけたようです。
城門を一歩外に出ると街道と建物もない平原が広がっています。
わかりやすく書けばRPGのフィールド上を想像してもらえれば結構です。
今のようにどこまで行っても家があったりはしません。

邑(むら)、集落と呼ばれるものは城壁に囲まれてはいません。
諸葛亮などはこういった集落で生活していました。
生活は自給自足ですが、必要なものは町に買いに行ったのでしょう。


異民族

三国志の時代に限らず中国の歴史には漢民族以外の周辺民族がよく登場します。
もちろん漢民族を破って国家を建設することもまれではありません。
広範囲にも及ぶ領土を持ったモンゴル帝国(元)はモンゴル民族ですし、金は女真族、清は満州族です。
後漢、三国時代(魏)、晋にかけても漢民族は相当異民族に苦労しています。
ちなみに異民族のことは東夷、西戎、南蛮、北狄(とうい、せいじゅう、なんばん、ほくてき)と呼ばれます。

後漢の時代には「匈奴(きょうど)」の脅威は前漢の征討によりほぼなくなっています。
それに伴い「鮮卑(せんぴ)」、「烏桓(烏丸、うかん)」の勢力は大きくなっていったのです。
曹操はこのふたつの民族を徹底的に排除します。これらは北狄と思ってください。
ただ異民族は国ではないので、潰されたりしないので後々何度も出てきますが。
蜀の南征では孟獲をはじめ木鹿大王など史実かどうかわからないような部族の酋長が登場します。
他にも夷陵の戦いで劉備軍に参加し戦死した紗摩加(さまか、人物)などがいます。
これらを南蛮といいます。
呉も異民族が多く住んでいて、孫権は異民族との混血という話もあります。
蜀の第三次北伐では武都、陰平の二郡を攻略しています。
この辺りの地域には羌族などチベット系少数民族が住んでいました。
呂布馬超姜維はこの辺りの異民族の血を引いていたようです。
こちらは西戎と呼ばれていました。
最後に東夷ですがここまで陸伝いだったのに対して、東は朝鮮半島以外海に面しています。
これらには朝鮮半島、日本、台湾などが含まれます。
台湾は夷州として書かれています。

ちなみに日本が西洋の文化を南蛮文化と呼んだのは、南の方から船でやってきたからです。
漂着したのは鹿児島県の種子島ですが、もしロシアの方を回って
北海道や青森辺りに着いたら(無理でしょうけど)北荻文化だったんでしょうか。

異民族ではありませんが、漢民族の中にも宗教や山賊などが多くいました。
まず宗教では太平道(たいへいどう)は黄巾の乱を起こして漢王朝を倒そうとしました。
五斗米道は漢中に陣取り独自の宗教国家のようなものを形成していました。
太平道に呼応するかたちで黒山賊(こくざんぞく)や白波賊(はくはぞく)も反乱を起こしています。
その他にも海賊を討伐した、という記述も見られます。