乱世を勝ち抜き三国の君主となった3人、曹操、劉備、孫権を徹底比較。
生い立ちから晩年までを比較します。
人物篇での紹介と重複する部分もありますが楽しめたらと思います。
(漢字表記はこちら PDFファイル)
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曹操は漢王朝に仕える役人の家柄で、父が買収したとはいえ三公にまでなっている。 孝廉に挙げられ順調に出世しており、黄巾の乱勃発時は騎都尉に任じられている。 |
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劉備は中山靖王(皇族)の末裔だが実際素性は不明、父は地方官である。 黄巾の乱のときは仕官しておらず、一番出遅れていたといえる。 |
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孫堅、孫策の後をついでいるため、はじめから君主であった。 孫権は黄巾の乱勃発時はまだ幼い。 父・孫堅は地方豪族で地方の太守をしていた。 |
根拠地
それぞれの出発地と最後の領地。
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曹操は漢に仕えているので元々自分が治めていても直接自分のものではない。 董卓から逃れたとき、故郷に帰っているので豫州とエン州と考えていいでしょう。 その後司隷、徐州、冀州、并州、涼州を手に入れる。荊州と益州の一部も手にするが、晩年にはどちらも失っている。 これらが魏というが、3つの中で一番大きい。 わかりやすくいえば中国(今の国土より小さい)の北半分である。 |
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劉備の場合黄巾の乱後に得た領地はすぐに返上し、各地を点々とする。 やっと得た徐州は呂布に奪われ、返り咲いても曹操に攻められ失っている。 劉備が自分の領地を得たのは赤壁の戦いの後である。 荊州を得、その後益州を手に入れたが、最終的には荊州は失っている。 実質蜀と呼ばれる地域は益州と荊州のごく一部だけである。 |
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孫権はいわば三代目なので、揚州をそのまま受け継いだ。 その後、荊州と交州を手に入れている。 孫堅は袁術の下におり、勢力範囲を広げ、孫策は呉の基礎を築いている。 |
武力
3人の直接の戦闘参加における成果。
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曹操は晩年を迎えるまでの主要な戦いでほとんど指揮をとっていた。 大敗したのは赤壁と漢中だけであるが、張シュウや呂布、馬超には命に関わるピンチもある。どちらかといえば文官タイプなので武力となると強いとはいえない。 |
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劉備は黄巾の乱による旗揚げ以降、全ての戦いの陣頭指揮をとっている。 とにかく部下に城を守らせてまで自分が先頭に立つぐらいなので戦争好きである。 戦果はさしてよくなかったようだが、負けてばかりでもない。 |
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孫権の場合、直接戦いに参加したことはあまりない。 父・孫堅や兄・孫策は江東の基礎を築くために自ら戦地に赴いており、決して武力が低いわけではないが、合肥の戦いでは自ら出陣し大敗している。 |
知力
作戦や文化など。
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戦場での大まかな作戦は自分で決めていた。 しかし曹操の場合、文化面では中国史上に名を残す存在になっている。 若いころに「孫子」を自分流に解説したり、文人集団を形成して現在にも残る詩の源流を作った。 |
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「武力」の項目と同じように劉備は死ぬまでほとんどの戦いで指揮をとっている。 しかし劉備が立てた作戦の成果はあまりよいものではなかった。 |
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孫権は人材を使うことには長けていた。そういう意味では知力はよかったのだろう。 |
人望・人柄
成功した影には有能な部下がいた。彼らのどこに惹かれたのか。
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曹操は手柄を立てた者への恩賞は惜しみなかったが、裏切りは許さなかった。 早くから領地を確保し、有能な士を全国に募集した。 とにかく有能な士を求めたため敵方からの降伏も大歓迎だったし、曹操自身も投降を勧めた。 |
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劉備は恩義に厚かったといわれるが、裏切ったことも多い。 実際には器が広かったがなーんにもできない人だったので、逆に「こいつを成功させてやろう」という気にさせる人物だったようだ。 |
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呉は家臣については複雑な事情がある。 孫氏は地方豪族で、後に家臣になる人物も地方豪族だった。つまり孫堅はその地方豪族の代表者だったために、孫堅の死後瓦解する可能性を大いに含んでいた。孫策、孫権は崩壊を防ぐだけの魅力があったといえる。 孫権は臣下の才能を見抜く眼力、度量があり、人材を使うことには優れていた。 |
家臣たち
旗揚げ当時からの者、投降した者…3人の覇業を手伝った家臣たち。
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旗揚げ…曹仁、曹洪、夏侯惇、夏侯淵、楽進など 投降(身を寄せた)…荀ケ、程c、郭嘉、典韋、張遼、張コウ、賈クなど 登用…李典、于禁、許チョなど |
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旗揚げ…関羽、張飛など 投降(身を寄せた)…趙雲、黄忠、馬超、魏延、厳顔、孫乾、費イなど 登用…諸葛亮、ホウ統など |
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孫権に引き継がれたときは体制が固まっているので、ここでは孫策を中心に。 |